「感動とはどういうことか」(下旬)子どものために

今年のお正月で孫にお年玉をたくさん取られたでしょ。

「来てうれし帰ってうれし孫七人」

という川柳がありますが、しかし子どもに思うまま物を与えたりして、大体おじいちゃん、おばあちゃんが甘すぎる。

おじいちゃんおばあちゃんが甘くて、若い親にしつけを任せていたらどうなるか。

孫たちが家に来ると、親によく言うんですよ。

「お前な、子どもにローラースケートみたいな運動靴買ってやる暇があるんなら、普通の運動靴履いて、日の出を見に山に連れて行け。そのとき子どもの手を握って、危ない所を引っ張り上げながら、やっとの思いでたどり着いた頂上でご来光を一緒に拝めば、どれだけ子どものためになるか」。

倉本聡さんが

「今、親が子どもに感動を与える機会が少なすぎる。

親には子どもが成人するまでの間に、感動という遺産をきちんと伝える責任があるはずです。

死んでから金や土地を残しても何の意味もない。

本当の遺産とは何か、いつ伝えるのが最も有効なのかを親たちは考えないと。

親子で感動を共にしてきた家庭からは、絶対にまがった子どもは出て来ません」

と話していました。

先ほども言いましたように、とにかく感動は忘れないんです。

頭の側頭葉という部分に長期記憶としてビシッと入るんですね。

感動したときっていうのや脳の作用は普通じゃありませんから。

家族でも友だちでも一緒になって、お互い励まし合いながら、一つの目的を持って何かを成したということ、また大変なこともあったけれども、それを乗り越えてきたという生きる知恵、そういうものがミックスして感動というのは生まれるわけですから、それを子どもが小学校低学年ぐらいで味わうと、おそらく高校生になっても、大学生になっても覚えていますよ。

その機会を与えることが親の役割でしょう。

ある学者が話していたことで、不思議だなあと思いながら心に残っているんですが、都会の子は田んぼの中に入ったことなんてないわけですよ。

ところが、ある日学習で田んぼの中に入れたそうです。

すると子どもたちが「先生、何か懐かしい気がする」って言ったというんですね。

人間っていろんな遺伝子を引き継いで生きているわけですが、普通「懐かしい」というのは、何かしたときの追体験として出てくる言葉なんですよね。

だけどそうではなく、人間の内なる自然のようなものが子ども心にも反応しているわけですね。

人間の根源的なもの、そこに大きな感動の素もあるように思われます。