そのような明治政府の知らせを受けて、西本願寺では第21代の明如上人(みょうにょしょうにん)が解禁2か月前の7月には菅了雲(すがりょううん)を開教準備のために、鹿児島県に派遣します。
解禁後、小田(おだぶつじょう)ら6名を開教使に任命し、さらに大洲鉄然(おおすてつねん)ら10人を派遣して鹿児島県の宗教事情を調査分析させます。
鹿児島の状況を報告した趣意書の中で大洲鉄然は「各地にお寺が欠乏しているので鹿児島県下のいたるところに開教使を派遣して念仏を広めるべきだ」と主張しました。
それを受け西本願寺がさらに多くの開教使を派遣していきますが、本格的に布教が始まる矢先の明治10年2月に大きな事件が起りました。
西郷隆盛率いる薩軍が明治政府と対立した西南戦争の勃発です。
その中で大洲鉄然らは京都から派遣された人物であったことから明治政府のスパイと疑われ、薩軍に捕まり投獄されてしまいます。
開教に極めて大きな影響が出ました。
西南戦争は同年9月24日に西郷隆盛が自決して終わるのですが、戦況の経過を見て、8月の段階で戦争の慰問をするために明如上人は弟の日野沢依(ひのたくえ)を派遣します。
併せて明治10年8月19日付で、明如上人は鹿児島の人に対して慰問の消息を送り、さらに各地で被害が出たのを心配し、明治11年2月28日、明如上人は鹿児島県下の振興のために県庁に金1万円を寄付しました。
今の2億~3億円位に相当すると思われます。
熊本県にも1万円、大分県にも2000円を寄付し、西南戦争後の復興に尽力しました。
そして鹿児島県への開教を本格的に進めていきます。
明治10年10月以降、開教のための人員を多く鹿児島に派遣し、翌年11月には東千石町に鹿児島の仮説教所を開設しました。
翌年10月5日には本願寺鹿児島別院へと発展させ、本格的な開教に勤めました。
さらに明治11年頃から鹿児島市内だけでなく各地に説教所を新設していき、明治13年には84か所の説教所ができ、檀家も12万軒余り、信徒が50万人以上に増えました。
かくれ念仏というかたちで念仏を守り通してきた人たちのエネルギーが一気に芽生えていったと思われます。
明治になると、かつて藩に仕えていた武士たちの暮らしが大きく揺るがされました。
明治8年秩禄処分(ちつろくしょぶん)の政策により武士の俸禄(ほうろく、年金のようなもの)が廃止されると、武士たちの不満が爆発し、西南戦争の原因ともなりました。
明如上人は、武士たちが苦労しているのは忍びないと思い、明治14年に『士族授産所』の設置のために当時の渡辺県知事に1万5千円を寄付しました。
西南戦争直後に1万円を寄付し、さらに実態に合わせた使途のために重ねて寄付しました。
その寄付により出来たのが『興業館』です。
文字どおり業を興すための施設で、武士がこれから生活していくために必要な技能を修得するための職業訓練所のようなものでした。
現在、鹿児島県の考古資料館となっていますが、この建物は和、洋、インド様式を取り入れた近代的なもので明治16年に完成しました。
西本願寺は早い段階から海外にも目を向けていました。
江戸末期の開国後、色々な文化が日本に入ってくるであろう、キリスト教も入ってくるであろうからそれらに仏教も対応していかなければならないと考え、明治に入る前に島地黙雷(しまじもくらい)や赤松蓮城(あかまつれんじょう)、大洲鉄然など僧侶たちをヨーロッパに派遣しました。
近代化にあわせて体制を整えていくべきと西本願寺の隣に僧侶養成の大学も作りました。
現在の龍谷大学の大宮学舎です。
木骨という様式の新しい近代建築を建造し、同じころに建った大学の本館は重要文化財の指定を受けています。
そのような流れの中で、鹿児島県の興業館も建てられました。
欧米の文化をいち早く取り込むことも西本願寺では積極的に進めました。
キリスト教の儀式として最も盛大に行われるのがキリストの誕生を祝うクリスマスであることを知り、5月21日の親鸞聖人の誕生日に降誕会(ごうたんえ)を行うようにしました。
親鸞聖人の命日も太陰暦に合わせて1月16日とし、報恩講(ほうおんこう)もこの日に実施しています。
大谷派が旧暦である11月28日を親鸞聖人の命日としているのと異なります。
全国的に西本願寺と東本願寺について話題になりますが、東本願寺は江戸時代初めに徳川家康によって取立てられたお寺です。
当時の第11代目の顕如(けんにょ)上人の長男の教如(きょうにょ)上人が開いたのがいわゆる東本願寺大谷派で、三男の准如(じゅんにょ)上人が受け継いだのが西本願寺です。
近畿より西は西本願寺の方が圧倒的に多く、東の方は大谷派が多い傾向があります。
薩摩のかくれ念仏は西本願寺と深いパイプがありました。
西本願寺としては、そういう念仏の教えを守ってきた方々に感謝し、きっちりとケアしていかなければならないという信念と熱い思いがありました。
そのような経緯から鹿児島開教についてはより積極的な意思を示し、教団をあげて開教を進める活動を展開して、今に受け継がれています。