平成30年7月法話 『生きるとは いのちを頂くこと』(前期)

先月、小学生の娘が、学校の課外学習で町内の車エビ養殖場に見学に行きました。

そこで担当してくださった職員の方より車エビ養殖についての様々な説明を受けました。

そしてなんとお土産として車エビをいただいて帰ってきました。

早速、娘が母親と一緒に料理をしようとすると、そのエビがまだ元気に飛び跳ねるのです。

その様子を見た娘が「なんだかかわいそう」というのです。

それもそのはずで普段はエビフライなど料理としてのエビとしかみていないのです。

そこには美味しい食べ物としてのエビという受け止めしかないのです。

しかし、今回、生きたエビをもらってきて、そのエビを実際に料理する過程において食べ物という感覚よりもいのちを頂いているんだという感覚が芽生えたのではないかと思います。

たくさんのいのちの犠牲の上に私たちのいのちが成り立っていることを今回の経験から感じ取ってくれているようでした。

以前読んだ本の中に学校で給食を食べるときに、先生が「それではみんなで『いただきます』をいいましょう」と言うと、生徒が「お母さんが給食費を払っているから『いただきます』はいわなくてもいいんだ」と言った。

というようなことが書いてありました。

この文章をみてなんだか寂しい気持ちになりました。

そこにはいのちをいただいているという視点が抜け落ちているからです。

浄土真宗では以下のような食事のことば(食前と食後のことば)があります。

食前のことば (合掌)

○多くいのちとみなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。
(同音)深くご恩を喜びありがたくいただきます。

食後のことば (合掌)

○尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。
(同音)おかげで、ごちそうさまでした。

 

食前のことばの「多くのいのち」と書かれているのは、私たちの日々の食事は多くの動植物のいのちの犠牲の上に成り立っているのであり、そのいのちへの感謝と慚愧を明らかに示すことになります。

私たちは多くの尊いいのちによって、今の自分が支えられている「おかげ」に気づくことで感謝の心が育まれることを願うものです。

食後のことばの「ごちそう」は漢字では「ご馳走」となります。

馳走という字を細分化すると「馬に也りて走る」となります。

私たちは毎日誰かの大変な思いと、多くの命を犠牲にして用意していただいたものを頂いています。

いのちをいただいて生かされているという事実を忘れがちな日々の日常ではありますが、せめても食前・食後の際の「いただきます」と「ごちそうさま」の発声の時には感謝のおもいをこめながらできればと思います。