第一義としたいこと

テレビのワイドショーや報道番組などで、アイドルや芸能人、元スポーツ選手等が出演する場面をしばしば目にするようになりました。

そして、政治・教育・軍事・経済・医療・外交等の問題をはじめとして、事故・災害・事件・醜聞(スキャンダル)などに至る世の中の多くの事柄について、それぞれの問題の専門家と共にコメントしたりしています。

決してコメントしているその人たちを貶めたり、あるいは批判したりするつもりはないのですが、それぞれの問題の専門家と同じテーブルで、諸問題を対等に論じあっている光景を見ると、少なからず違和感を覚えることがあります。

これは、私だけが感じていることなのかと思っていたのですが、先日同様のことを感じている人がいたことを知りました。

ジャーナリスト・大学教授の池上彰氏が『文春オンライン』(文藝春秋社)で担当しているコーナーがあるのですが、30代の会社員が「最近はテレビのワイドショーや報道番組にジャニーズ(事務所所属のアイドル)をはじめ、たくさんの芸能人が出ている。

芸能人が報道に大きく関わっていることについて、どう考えているか」という質問を寄せたという記事を目にしたからです。

この問いかけに対して池上氏は「個々の番組の方針についてコメントすべき立場にない」と前置きしながらも「ニュースを伝えたり解説したりコメントしたりする役割を、芸能人が務めることには違和感を禁じ得ない」と指摘し、さらに「人気タレントが画面に出ていれば視聴率が稼げるだろうという、さもしい発想が透けて見える」とバッサリ斬り捨てた上で「聞き手に芸能人がいる演出はありだとは思いますが、芸能人がニュースを伝えるのは国際的に見て日本ならではの奇観」とまで言い切っています。

そして「ニュースを伝えるのは、現場取材を積み重ねたジャーナリスト。関心のなかった芸能人にカンペを読み上げさせるのは不思議な光景」と、その理由を明らかにしています。

また、最後には「日本のテレビ界はプロの仕事はプロに任せるというルールが確立していない。ニュースはニュースのプロが伝えるべきだと思っている」と、強く主張しています。

一般に「芸能人キャスターたちのコメントはテレビ局の意を受けたものも多く、オリジナリティに欠けている」との批判があります。

池上氏が言うように「視聴率稼ぎで人気者を起用している」と指摘されているにもかかわらず、多く起用されるのは、常に「視聴率」という結果を求められるテレビ局の厳しい状況が背景にあるからだと思われます。

それは、言い換えると「芸能人キャスターたちを受け入れる一定の視聴者がいる」ということです。

確かに、事実は誰が伝えても大差はありません。

それなら、テレビ局としては容姿が端麗だったり、人気や知名度があったりする人を画面に登場させれば、そのテレビ局にチャンネルを合わせる人が増えることが期待できます。

いわゆる「需要と供給」の関係性がここでは成立しているように思われます。

ところで、お寺でご門門徒の方を対象とする研修会において、これと同様の違和感を覚える事柄があります。

それは、その研修会のテーマとして「平和・差別・原発・臓器移植」などの問題が設定され、それらの課題について、私たち僧侶が講師として法話をすることになっていることです。

ここで、念押ししておきたいのは、決してこれらはどうでも良い問題だと言っているのではないということです。

むしろ、現代の社会を生きる者の一人である以上、仏教徒、あるいは浄土真宗の念仏者であってもなくても、それぞれ真摯に向き合わなければならない課題ばかりだと考えています。

では、ここで感じている違和感とはどこからくるかというと、私たち僧侶はそのいずれの問題においても、いわゆる「専門家」ではないということに根差しています。

例えば、お寺の本堂で行う研修会で、平和問題を語ることになったとして、では具体的に北朝鮮の核ミサイルにどのように対処するのか、あるいは中国艦船の領海侵犯にどう向き合うかといった事柄について問われた場合、仏教の「兵戈無用」の教えを持ち出して平和の尊さを説いたとしても、直接的な解決策として受け入れてもらえるとは到底思えません。

やはりこの場合は、軍事あるいは外交の専門家が、その立場から方策を述べる方が説得力を持つのではないかと思います。

にもかかわらず、その問題を僧侶である自分が講師として話している場面を想像すると、あたかもテレビのワイドショー等で、アイドルや芸能人、元スポーツ選手といった人たちが専門外のことについてコメントしているときの光景と少なからず重なるような気がして、自身に違和感を覚えてしまうのです。

もし、どうしても何か語らなければならなくなった場合、それは一定の立場から別の立場を否定するのではなく、仏教の視点から問題提起をする必要があると思います。

例えば、「平和問題」について集団的自衛権を通して考える場合、この法案に賛成する人も反対する人も共に目指すところは「平和」でした。

そうすると、誰もが平和を希求しながら、それを実現するための方法論に違いがあったのですから、そこでどちらか一方の立場に組して他を非難するのは仏教的在り方とは異なる気がします。

親鸞聖人は、私たち凡夫にはひとかけらの真実心もないことを痛感され、私たちが正しいと思ってしていることも「雑毒の善」に過ぎないと悲嘆しておられます。

そうすると、どちらの立場にあっても、自身は雑毒の善しかなしえないことをきちんと自覚して、自分は独善に陥っていないかを常に確かめながら、人間として英知を結集する以外に平和を実現する道はないのだと説き続けるのが仏教の立場だと思います。

翻って教化の現場に目を向けると、お念仏の声が、お寺の本堂での法要でも、葬儀の斎場でも、ご家庭でのご法事でも年々聞かれなくなっている昨今、私は浄土真宗の僧侶として、何よりも「専門」の分野であるお念仏の教えを広く伝えていくことを第一義としたいと思うことです。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。