2019年8月法話『お盆 亡き人を偲び語り継ぐ』(中期)

一般に、お盆には亡くなられた方のお墓参りやご先祖の供養が盛んに行われています。また、普段あまり宗教的なことに熱心でなかったり関心を持たない人も、お盆には帰省して墓参や寺院に参詣したりされます。このときに営まれている仏事の内実は、いわゆる「追善供養」という在り方です。追善供養とは「亡くなった者に対し、その者の冥福を祈って行われる法要または読経のこと」で、具体的には「迷っている状態にある亡くなった人の魂が、次の世にはいいところに生まれることができるようにと仏事を営むこと」です。大半の方は、葬儀や七日ごとの中陰法要をはじめ、年回法要やお盆とはそのようなものと認識しておられるようです。

そのため浄土真宗のご門徒の方にも、年回法要やお盆などの法要は亡くなられた方々のために営む追善供養だと理解しておられる方が多いのですが、親鸞聖人は「父母の孝養(きょうよう)のためにと念仏を申したことは、これまで一度もありません(「歎異抄」)」と仰っておいでです。この「孝養」という言葉は、「きょうよう」と読むときは追善供養のことです。つまり、親鸞聖人は「亡くなった方々のために念仏をとなえたことはない」と言われているのです。

実は、親鸞聖人が著されたものの中には「先祖」という言葉はありません。先祖という言葉を用いておられないのですから、必然的に先祖供養ということは、されなかったことが窺えます。では、親鸞聖人は先に逝かれた方々のことに無関心であったのかというと、決してそうではありません。親鸞聖人においては「諸仏」という言葉が先祖の方々を語るときの言葉になっています。では、亡き方が諸仏であるというのは、いったいどのようなことなのでしょうか。

諸仏というのは、私を真実の教えに出会わせてくださった縁ある人びとのことを意味します。亡くなった方が諸仏だということは、その方の死を通して私のあり方が問われ、やがて人生の全体が問いとなり、そのことを通してお念仏の道に眼を開いていくことができたときに、初めて亡くなられた方が私にとって諸仏となるのです。

このような意味で、亡くなった方が仏であるということは、私の生き方を離れて仏であるというわけ二は生きません。親鸞聖人においては、ご自身が「お念仏の教えに生きるようになった」という一点において、一切の人びとを諸仏と仰いでいかれたのです。そのため、一般に先祖といわれている方々のことも、単に先に逝った自分の肉親という意味ではなく、自身を念仏の教えに出会わせてくださった大切なご縁として仰いでいかれたのです。

ところで、お盆には一年以内に亡くなられた方の初盆法要だけでなく、それ以降も身近に亡くなられた方をはじめ先祖の方々への仏事が毎年営まれているのですが、その根底にある感情の中に、「気晴らし」ということがあるのではないかという感じがします。

ご法事を勤め終わった後に、ご門徒の方から「これで気持ちが晴れました」と言われることがあります。確かに、それまでいろいろと心配りをしてこられ、滞りなく無事に終えることができたことを素直な気持ちで語っておられるのだと思うのですが、この「気持ちが晴れた」ということは裏返して言うと、亡くなった方に対してしばしばかけられる「安らかにお眠りください」という言葉になります。亡き方々の法事を勤めたことによって、その人たちが安らかに眠っていてくださると、自分たちの生活がその方々によって脅かされることはなくなるので「気持ちが晴れる」ことになるというわけです。けれども、これはあたかも取り引きのような関係性だといえます。

浄土真宗における供養とは、追善供養ではなく、どこまでも知恩報徳であり、報恩の仏事です。私をお念仏のみ教えに目覚めさせてくださった諸仏としての恩を知り、その恩に報いていく報恩の行であり、讃嘆する供養です。お釈迦さまは、魂があるのかないのか、死後の世界があるのかないのかという問いに対して、それは戯論だとして一切答えを与えられなかったと伝えられています。それは、私というものを離れて、亡くなった人がどうなっているか、第三者的に問うても、私が自らの人生を生きるということとは何の関わりもない戯れの論議に過ぎないからです。

ここで問題にしなければならないことは、私にとって亡くなった人がどうなっているのかということです。自分にとって、亡くなった人がどういう意味を持っているのかをよく考えてみて、もしその人が自分にとって愚痴の種でしかないとしたら、それは仏さまであるというわけにはいかないと思います。やはり亡くなった方を縁として、私がお念仏を申す身になるというときに、亡くなった方が諸仏になるのです。ですから、私がどう生きていくのかということを抜きにすると、すべてが戯論でしかないのです。改めて言うと、親鸞聖人は、自分をお念仏の教えに出会わせてくださった大切な縁として、亡き方々を諸仏と仰いでいかれたのです。

よく考えてみると、その人の死が悲しいのは、その人から贈られたものがあるからです。もし何も贈られていなければ、単なる人の死であり、無関心でいることも可能です。けれども、その人の死が深い悲しみになるということ、言い換えると悲しみの深さというものは、実はその人から贈られたものの重さに比例するのです。その人が亡くなったときは、ただ悲しいという思いに包まれるばかりですが、その悲しみをくぐってその人の生涯から贈られたものを受け止めていくこと、それが残され者にとって何よりも大切な務めなのだといえます。

浄土真宗の宗祖・親鸞聖人のご命日を縁として営む法要を「報恩講」といいますが、それは親鸞聖人の死を通して自分に贈られたものを受け止める営みだといただくことができます。そうすると、浄土真宗における仏事は、すべてが報恩講なのだといえます。

このような意味で、亡くなられた方々が私に贈ってくださる死別の悲しみや嘆きというものは、まさに私を仏道に向かわせてくださる尊い機縁となるもので、諸仏の呼びかけるといえるように思われます。だからこそ、お盆には亡き人を偲び、語り継ぐことによって、その方から贈られていることをきちんと受け止めていくことが大切なのだと言えます。