2019年9月法話 『人間だからこそ生き方に迷う』(中期)

私たちは、生きていく中でいろいろなことに迷います。些細なことから言えば、何か物を買う場合、買うか買わないかを迷い、買うと決めてもこれにするかあれにするかと、どれにするか迷います。また、誰かに何かに誘われると、行くか行かないかを迷い、行くと決めても何を着ていこうかと迷ったりします。この他、何か食べるときや飲むときにも迷うことがありますし、まさに朝起きてから寝るときまで、いろんなことで迷っているといえます。

では、どうして私たちは一日中迷ってばかりいるのでしょうか。その時々によって様々な理由が想定されますが、例えば、どちらを選べばよいかの決め手が無かったり、自分の希望や欲求をすべて満たしたいと思ったり、人間関係を円滑にしておきたいと考えたりするから等だったりします。また、中には「生きるべきか・死ぬべきか」といった、「いのちの在り方」についても苦悩する人がいたりします。

けれども、日々生きていく中で、いろいろなことについて疑問を持ち、そのことで悩んだり苦しんだり迷ったりするのは、おそらく人間だけなのではないかと思います。他の生き物、例えば犬は「なぜ自分は犬なんだろう」と悩んだり、あるいは人間ではなく犬に生まれたことに絶望して、自ら死を選んだりするといったことはありません。それは、猫や牛、馬や豚などをはじめ、人間以外のすべての生き物がそうだといえます。言い換えると、人間だけが生きていく中で、いろいろなことに迷うのです。

では、なぜ人間だけがいろいろなことに迷うのでしょうか。オーストリア出身のアルフレッド・アドラー(1870年-1937年、精神科医、心理学者、社会理論家)は、人間の生き方を『自分の主観的な目的を達成しようとするプロセス』と定義して、悩みや迷い、問題も何らかの目的を達成しようとして現れている現象に過ぎないのだと説明しました。このアドラ-の提唱する心理学では、人間のすべての「行動・発言・生き方」には何らかの目的があると考える目的論を前提にしているので、迷うことの根底には何らかの主観的な目的を達成したいという動機付けが潜んでいるというように考えます。

そして、私たちは迷えば迷うほど、だんだんどちらを選ぶか決められなくなってしまうことがありますが、結論を出せないまま迷い続けているのは、慎重に考えて結論を出すためではなく、実は「そのまま迷い続けている状態を続けたいからだ」と説明しています。なぜなら、迷い続けていれば、とりあえず決断をしなくても良いからです。これは、迷っているからどちらかを選べないのではなく、どちらも選びたくないから迷い続けているという見方もできます。さらに、このように迷い続けることは、結論を出した際に自身を納得させるための手立てにもなり得ます。

例えば、仕事にせよ遊びにせよ、当初は「せっかく誘ってくれたのに断ると相手に悪いから」と約束したものの、約束した日が近付いてくるまでどうするか迷うことがあります。それは、心の中に「本当は行きたくないという思い」があるからです。そして、直前までああでもないこうでもないと迷ったあげく、結局断りの連絡をしてしまうことがありますが、その後はさんざん迷ったわりには意外なほど気持ちがさわやかだったりします。それは、断って申し訳ないという気遣いを凌駕する「迷いに迷った結果導き出した結論だから」という、自分を納得させる理由があるからです。

けれども、視点を変えてみると、このような迷い方はきわめて無駄なことをしているようにも思われます。だいたい初めからあまり行きたくないにもかかわらず、相手への配慮から一度応諾して、その後、迷い続けた挙句断るくらいなら、何も迷うことなく初めから断りの返事をすればよいからです。おそらく、このことは誰もが内心では気付いていることだと思います。

では、なぜ初めから断ることが難しかったりするのでしょうか。それは、迷っていることの内容が、それをすれば自分の得になったり、断れば相手との関係を気まずくしてしまうかもしれなかったりするからです。そのため、自分が手にできるはずの成果をふいにしたり、断ったことで相手が不快な思いをしたりするのではないかとか、自分の状況が悪くなってしまうのではないかなどと考えて、迷い続けることになるのです。

ところが、実際には断ったあと、一人で悪い方向に考えてあれこれ悩んでも、相手には自分がさんざん迷ったことは伝わりませんし、相手が自分のことをどう思ったかも分りませんので、人間関係における迷いの多くは基本的には無意味なことをしているということになります。

にもかかわらず、そのような無意味とも思われることで迷い続けるのがまさに人間の本性であり、そのためどうにもならないことや、やり直すことのできない過去、あるいは選びきれない複数の選択肢を前に延々と迷ったりするのです。

その典型が「生まれた以上、いつか必ず死ななければならない」と分かっているのに、自ら「死んでしまいたい」「どのように生きればよいか」などと、迷うことです。では、もし私たちの命が永遠で、「死ななない」のであれば、どうでしょうか。死なないのであれば、特に生きることは問題にならないと思いますし、何となくだらだらと生き続けいても良いのかもしれません。

よく、年末になると、「今年も残すところあと〇日。良い年で終わるために、一日一日を大切に…」と口にしたりすることがあります。けれども、年が明けてお正月に「今年も残すところ…」などと口にすることはありませんし、そのように思うこともありません。それはまだ、始まったばかりだからです。ところが、年末になって一年の終わりが近付くと、そのことを意識して、「一日一日を大切に…」と口にしたりするのは、「終わりが今を問う」からです。

人間が他の生きものと決定的に違うのは、人間だけがそのことを強く意識する・意識しないに関わらず、漠然とではあっても、いつか自らが死ぬということを知っているということです。にもかかわらず、日常生活においては、そのことから目を背け、なかなか向き合おうとはしません。けれども、人生の途上で大切な方と死別したり、自分が大病を患ったりすると、嫌でも自分のいのちが終わることについて、深く考えざるを得なくなります。

つまり、私たちはいつか死ぬからこそ、そのことを自覚したときに、今の自分の生き方が問題になるです。そして、死の自覚が私の「生き方」を問い始めるが故に、私たちは「生き方に迷う」ことになるのだといえます。