「観」ということ

昨年から韓国との間で、元徴用工訴訟・慰安婦・レーダー照射・輸出管理規制、軍事情報包括保護協定破棄など、次々と問題が発生し、これまでにない軋轢が生じています。そのため、日本と韓国との間で行われる予定だった民間交流が中止にされたり、観光客の減少から定期航空便の減便や就航の中止等が次々と発表されたりしています。ただ゛し、国内での対応は対照的で、日本では韓国に対して敵意を示すような目立った動きは見られないのですが、韓国では日本製品の不買運動や日本政府への抗議集会などが盛んに催されています。同じ問題でも、それを見る立場や考え方によって対応の仕方が極端に異なっていることが興味深く思われます。

ところで、仏教ではものを考えていくことを「観」という言葉で表します。「観」とは「みる」ということですが、これはただ漠然と見るのではなく、見ることにおいていろいろと考えるということがその根底にあります。

私たちは、生きていくうえで、いろいろなものを見て生きていますが、その場合、目の前の物事をあるがままに見ているようで、実はいつも自分中心の見方に終始しています。これは、見方だけではなく、聞き方においても同じです。蓮如上人が「意巧(いぎょう)に聞く」とか「得手(えて)に法を聞く」ということをおっしゃっておられます。これは、話を聞くときに無意識のうちに自分の都合のいいように聞き変えてしまうということを指摘しておられるお言葉です。

ある時、門弟の方々が蓮如上人のお話を聞いて、「今日のお話は本当に尊いお話だった。これを忘れることのないように、お互い心に刻み合っておこう」ということで、六人ほどでそれぞれ自分が感銘を受けたところを語り合ったところ、みんなそれぞれ話す内容が異なっていた。しかも、中には話の内容を正反対に理解して感激している人もいたということがあったと伝えられています。

私たちは、自分ではひたすら教えに耳を傾けて聞いているつもりでいても、いつの間にか心が巧みに聞き変えてしまうのです。心が巧みにということは、自分の思いや自分の物差しに合うようにということです。また、話を聞くときは、自分が興味や関心のあるところはよく聞いているのですが、それ以外のところはつい聞き流してしまっていたりします。けれども、話というのは全体の流れの中で語られているのですから、自分がよく理解できたところや都合のいいところだけつまみ食いのような聞き方をしていたのでは、まったく違う意味で理解してしまうことになりがちです。

これは、見るということにおいても同じです。私たちは、「この目で見たのだと」と、自分で見たことが正しい事実であると強く主張するのですが、その見方も聞き方と同じように、やはり「得手に」あるいは「意巧に」みた見方でしかありません。その根本にあるのは、つまるところ私たちはそのものを自分の前において、しかも自分中心の思いでそのものを見て判断するというあり方にほかならないのです。

このようなあり方を仏教では「分別」といいます。分別というのは、文字通り分けて見るということです。その分け方の最初にあるのは、見る私と見られているその物です。物を自分の前に持ってきて、それを自分の方から見る。そこでは、自分とその物とが二つに分かれているのですから、結局、自分の都合でしかその物を見ることができません。しかしながら、その物は全体の中で、いろいろな物との関わりの中で存在しているのです。それ一つだけ取り出して細かく見ようとしても、全体の中におけるいろいろな物との関わりの中で見ようとしなければ、正しく見ることなどできるはずがありません。

そこで、仏教では「止観(しかん)」ということを言います。これは何を止めるのかというと、分別をもって見ることを止めるのです。分別が自分の前に物をおいて、それを自分の側から見るということであるのに対し、それを止めてその物自身になってその物を理解しようとするのです。

今日、日韓の間に横たわっている問題が複雑に絡み合ってここまでこじれたのは、お互いの「分別」によって自らの正しさを主張し続けてきた結果だといえます。ただし、客観的に見ると日本の側は比較的冷静な対応に終始していますが、韓国の現政権は東アジア地域、あるいは世界全体の動きを見ようとせず、個別に問題を取りあげて、それを自分の側だけから一方的に論じ続けているとの感を否めません。ただ、私たち日本人の側も、韓国の主張は理不尽なものばかりだとして切り捨てるのでなく、個々の主張がなされることの根底にはいったい何があるのかを相手の側になって理解しようと試みることも必要ではないかという気もします。もちろん、それは韓国の側は必須だと思いますが…。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。