2020年3月法話 『恋しくば南無阿弥陀仏を称ふべし』(中期)

この言葉は、「恋しくば南無阿弥陀仏を称うべし われも六字の中にこそ住め」という言葉の前半部分で、全体を通して読むと「(私が亡くなった後に)私のことを懐かしく思ってくださるときは、南無阿弥陀仏とお念仏を称えてください。私は、いつでもあなたのお念仏(文字にすれば、ナモアミダブツと7文字になりますが、漢字で表記すると6文字なので「六字」と述べられています)の中にいますよ」という意味になります。

一般に、亡くなられ方々のことを「先祖」という言葉で言い表すことが多いのですが、親鸞聖人の書かれたものの中には、先祖という言葉は見当たりません。では、親鸞聖人は、父母をはじめ自分の先に逝かれた血縁の方々のことをまったく気にかけておられなかったのかというと、決してそのようなことはありません。親鸞聖人においては、「諸仏」という言葉が、亡き方々のことを語る言葉となっているようです。そうすると、亡き方が諸仏となるというのは、いったいどのようなことなのでしょうか。

年回法要などをお勤めした後、時折施主の方が「これで気持ちが晴れました」と言われることがあります。確かに、ご法事をお勤めされるに当たり、事前にいろいろと気配りをなさり、滞りなく終えられた安堵感から口にされるようにも窺える面もあるのですが、これを別の言葉で言い表すと「安らかにお眠りください」という言葉になります。それは、亡くなった人が安らかに眠っていてくださると、自分の気持ちも晴れるということです。

年に何度か「先祖供養をお願いします」と言われる方がいらっしゃいますが、未だかつて「良いことがあったから」「嬉しいことがあったから」という理由で先祖供養をお願いされた方は皆無です。何かしら自分や家族に不都合なことがあり、その悪しき状況がなかなか改善しないことから、「見てもらったら…」と言われるのですが、とあるところで見てもらったところ「先祖供養をしていないのが不幸の原因だから、お寺に行って先祖供養の供養を…」ということのようです。こういった、亡くなられた方に対する「定期的に供養をしないと祟る存在」であるかのような理解が、年回法要を勤めたことで、「次の法要の機会までは、安らかに眠っていてくださるに違いない」という安堵感を生み、それが「気持ちが晴れる」ことに繋がっていくようです。

けれども、親鸞聖人は亡き方々のことを「諸仏」と述べておられます。親鸞聖人にとって亡くなられた方が仏であるということは、私の生き方を離れてのことではありません。亡くなられた方が諸仏であるということは、亡くなられた方から私の生が問われ、そのことによって私が本願の教えに出会うことができた。つまり、私をして本願に出会わせる尊いご縁となったとき、亡くなられた方々は諸仏となるのです。

このような意味で、親鸞聖人においては、単なる自分の肉親としてではなく、私を本願に出会わせてくださった尊い縁として、諸仏と仰いでいかれたのです。ですから、亡くなった人がどうなっているかということを考える場合、私を離して語っても全く意味がありません。私にとって亡くなった方が今どのような意味を持っているかよく考えてみて、私にとって亡くなった方が、自分がうまくいかないときの愚痴の種にしかならなければ、それは仏というわけにはいかないと思います。どこまでも、亡くなった人を縁として、私が念仏申す身となるというときに、亡くなった人は諸仏になるのです。

お浄土に生まれ往くことを「往生浄土」といいますが、「往生」の往は、「往って還る」という時の往です。そうすると、お浄土に生まれて仏となられた方々はそこで安らかに眠っておられるのではなく、すぐにこの娑婆世界に還ってきて、縁ある方々を真実の世界である浄土に迎え入れんがためにはたらいておられるのです。端的には、縁ある方々の拝む心に還って来られ、念仏の声となって躍動しておられるのです。

ですから、大切な亡き方のことを恋しく思うときには、「ナモアミダブツ ナモアミダブツ」とお念仏を称えられると、まさに一声一声の中にその方はましますのです。そう…、いつでも、どこでも、お念仏の声の中に。