2020年4月法話 『耕心田 心を耕す教えを聞こう』(中期)

パーリ語で書かれた『スッタニパータ』や『サンユッタニカーヤ』に、次の話が収められています。

 

お釈迦さまがある村で托鉢をしている時、カシー(「耕作者」)・バーラドヴァージャというバラモンが収穫した食物を配っているところに出会いました。お釈迦さまが食を受けるため、その傍らに立たれると、バーラドヴァージャはお釈迦さまに対して

「わたしは今、こうして田を耕して種をまいている。田を耕して種をまいたあとで食べるのです。あなたも同じように田を耕し種をまいたあとで食べなさい」。

と言いました。バーラドヴァージャは「人間は額に汗してこそ食べる権利がある」と言いたかったのです。これは、世間で働く者から「生産活動もせず、仕事にもつかず、世の中を棄てて施しだけをもらおうとする」存在だとして、出家者の代表であるお釈迦さまに向けられた非難の言葉でもありました。すると、お釈迦さまは次のように答えられました。

「私もまた田を耕し種をまいています。耕して種をまいてから食べるのです」。

けれども、バーラドヴァージャからすれば、どう見てもお釈迦さまが田を耕しているようには見えません。そこで、バーラドヴァージャは、ふたたび皮肉をこめてお釈迦さまにたずねました。

「あなたには田を耕す道具もなく、牛もいないのに、どうやって田を耕しているというのですか。私によく分かるように話してください」。

それに対してお釈迦さまは、次のような詩句をもって答えられました。

「私にとっては、信仰が種である。
苦行が雨である。
智慧がわが軛(くびき)と鋤(すき)とである。
慚(はじること)が鋤棒である。
心が縛る縄である。
気を落ち着けることがわが鋤先と突棒とである。
わたしは真実をまもることを草刈りとしている。
努力がわが牛であり、安穏の境地に運んでくれる。
退くことなく進み、そこに至ったならば、憂えることがない。
この耕作はこのようになされ、甘露の果実をもたらす。
この耕作が終わったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる。」

それを聞き終わると、バーラドヴァージャはお釈迦さまに言いました。

「お釈迦さま、あなたは耕作者です。
お釈迦さまは甘露の果実(みのり)をもたらす耕作をなさるのですから。
あなたはまさに倒れたものを起こし、覆われたものをあらわにし、迷ったものに道を教え、あるいは眼ある人々が物を見られるよう暗闇に灯火を掲げるように、さまざまなやり方で真理を明らかにされました。
私はお釈迦さまに帰依いたします。
真理と修行者の集いに帰依します。
お釈迦さま、私を在俗信者として受け入れてください。
これからのち命の続く限り帰依いたします」

 

確かに、バラモンのバーラドヴァージャが言うように、毎日の仕事や家事は私たちが生きていくためには必要なことです。そして、その代表的行為として「田を耕す」ことが挙げられています。しかし、物質的に豊かな生活をすることだけが人生のすべてではありません。ここでお釈迦さまは、「田を耕す」ことになぞらえて、あらゆる苦悩を離れたさとりの世界(甘露の果実)を得るための道を歩むことの大切さを説いておられるのです。

私たちは、日々何かに追われるように生きています。そのため毎日の忙しさのなかで、心が固く冷たい土のようになっていることもあったりします。漢字というのはよくできていると思うのですが、「忙しい」という字は左に「りっしんべん」右に「亡ぶ」と書きますが、りっしんべんは「心」ですから、まさに「心が亡んでいく」ありさまが「忙しい」ということになります。

お釈迦さまの言われる「田を耕す」とは「心の田を耕す」ことです。それは私たちにとっては、自らを掘り返して仏法を聞いていくことであり、仏さまの光に照らされながら柔らかで温かな心を養っていくことであると味わうことができます。忙しさに追われ、心が荒んでいくうちに、やがて亡んでしまうことのないよう、仏さまの教えに耳を傾け、心の田を耕し、豊かな心で生きたいと思うことです。