詩集『にんげんだもの』の著者で、詩人・書家として有名な「相田みつを」さんの詩をご覧になられた方は多いと思います。
たくさんの詩がある中、度々思い返す詩があります。
そのうち お金がたまったら
そのうち 家でも建てたら
そのうち 子供から手が離れたら
そのうち 仕事が落ち着いたら
そのうち 時間のゆとりができたら
そのうち・・・
そのうち・・・
そのうち・・・
と、できない理由をくりかえしているうちに
結局は何もやらなかった
空しい人生の幕がおりて
頭の上に淋しい墓標がたつ
そのうち そのうち 日が暮れる
いまきたこの道かえれない
今年は、全世界が新型コロナウィルスの影響を受けています。
ウイルスの影響に加え、地球温暖化による環境の変化は、経験したことのない災害を頻発させています。
今まで当たり前にしてきたことが、当たり前にできない。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人(鎌倉時代の1173年ご誕生)は9歳で出家をされた際、お寺に着いたのが夜であったため、明日になったら僧侶となる儀式を行いましょうとご住職から言われます。
しかし親鸞聖人は、明日まで待つことはできないと言われ、次の歌を詠まれたと伝えられています。
「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」
今は美しく咲いている桜も、明日も見ることができるだろうと安心して思っていると、夜中に嵐のような強い風が吹けば全て散ってしまうかもしれないという意味です。
戦乱の多い時代であったため、命の価値観は現代とは大きく違ったでしょう。自分の命を桜の花に喩えられたのでしょうか、明日に自分の命がどうなっているかわからないからこそ、今出来ることをし、精一杯生きるという思いが伝わってきます。
現代の私たちは、相田みつをさんの詩のように、命の儚さを知っているはずなのに、どこか遠いことのように無関心に生活を送っています。
大切な方の死という命のご縁や、自分ではどうしようもできない場面に出遭ったときは、そのことを自覚しますが、時間の経過とともに記憶は薄れ、自分には明日がくることを当たり前のように生活をしています。
「明日やればいいか」と先延ばしにして、「またそのうち」と片付けてしまっている日がどれだけあるでしょうか。
大切な事は後回しにしてしまうのに、迷信や俗信に振り回され、自己中心的な欲望を満たす事だけに執着し、その欲望を満たすために神仏に祈ることを親鸞聖人は戒めておられます。
いつでも どこでも どんな時でも この私に寄り添い続けてくださる仏様が南無阿弥陀仏です。
既に仏様の救いの目当てとして私があるのですから、現世祈祷は必要ではなく、迷信や俗信に惑わされる必要はありません。
僅かな時間・僅かな瞬間でもいいので、お念仏を称え、「今」があること、当たり前のことが当たり前にできる日常に感謝し、「今」しかできないことを大切に過ごせるよう自分自身に問いかける日を増やしたいものです。
合掌 南無阿弥陀仏