2020年12月法話 『生かされて過ぎゆく年にありがとう』(前期)

『多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。
 深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。』(食前のことば)

『尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。
 おかげでごちそうさまでした。』(食後のことば)

これは、浄土真宗本願寺派の食事のことばです。4歳の息子が食事の際に、よく言います。「よく覚えているね」と話しかけると、「御恩報謝が難しいんだよ」と言われたときには、“確かにそうだな(笑)”と思いながら、日々成長していく子どもの姿を感じたことでした。また、年月と共に成長していく姿を感じながら私自身はどうなのだろうとも思うことです。

さて、食事の言葉を言う息子を見ながら、ふと考えると日々の生活を送る上でかかせないものの一つに食事があります。当たり前のように私は一日三食を食べて生活しています。

食べるということは私が意識しても、無意識でも食べたものが私のエネルギーとなり、私が生きることができる事実となるわけですが、意識するのとしないのとでは大きな違いがあるように思います。

意識してみると、「食べる=多くのいのちの犠牲によって保たれている私のいのち」・・・食前のことばにあるように、他のいのちや多くのおかげで生かされているいのちへの気づきが生まれます。

しかし、無意識だと食べることが当たり前になってしまい、生かされていることへの気づきは生まれないと思います。

生かされているいのちへ気づかされるとき、食後のことばにある「御恩報謝」・・・御恩に感謝するこころ、ありがとうの心が生まれることでしょう。

今年も残りわずかとなりました。嬉しかったこと、悲しかったこと、思いがけなかったこと・・・それぞれに色々あったことだと思います。

一日一日と過ぎゆく中に、色々あるけれど“生かされているいのち”へ、ありがとうの心を大切に過ごしたいことです。