ろうそくは、口で吹き消したらダメ?

まず、ご質問の状況から確認してみたいと思います。「仏事いろいろ」へのご質問ですので、お誕生日ケーキのローソクのことではないですね。「せーのっ!」と吹き消す、あの色とりどりの渦巻き型のローソクではなく、当然、お仏壇のろうそくのことでしょうから、答えは言わずもがな、「ダ・メ・で・す・よ」になります。

実際には、仏具として柄のついたろうそく消しがございますし、あるいは小さなうちわを用いたりします。「仏事作法」という言葉もありますように、まずはていねいに扱うマナーを理解することが早道かと思います。

しかしここでは、マナーやたしなみにとどまらず、この質問を奇貨として、ろうそくを消す場面ではなく、ろうそくを「灯す」場面から考えてみたいと思います。

親鸞聖人がたいへん尊敬された七高僧のお一人「曇鸞大師」(476~542)は、「千歳の暗室」という譬えで「光と闇」、すなわち「阿弥陀仏の救いのはたらきと迷いの私」の関係を示されています。

曇鸞大師は言われます。

たとへば千歳の闇室に、光もししばらく至れば、すなはち明朗なるがごとし。闇、あに室にあること千歳にして去らじといふことを得んや。(親鸞聖人『教行信証』、註釈版299頁、曇鸞大師『往生論註』引用文)

(現代語訳)
たとえば千年もの間、一度も光の入ったことのない闇に閉ざされた部屋があったとします。この部屋に少しでも光が入れば、たちまちに闇は破られ明るくなります。千年もの間、闇に閉ざされていたからといって、その暗闇が光を遮ることはありません。同じように、迷いの闇は真実の光によって、たちまちに破られるのです。

阿弥陀仏の光明が凡夫の私の闇を破ってくださるのは、「たちまち」になのです。千年間闇に閉ざされていたから、千年を要して明るくなるということはありません。1本のろうそくの光によって、どんなに長く深い闇も一瞬で去る。そして、その暗室は、明るく「安心」の場になるのです。

曇鸞大師は、こうしたろうそくの光のはたらきを「身をもって知る」ことの譬えとして「千歳の暗室」をお示しになられたのでしょう。

このように、ろうそくが灯る場面を考えたならば、ろうそくを「消す」場面のトリセツが自ずとあきらかになってきます。大げさかもしれませんが、ろうそくに火をつけるたびごとに、千年の闇が破られているのだし、あるいは反対に、ろうそくを消すたびに闇としての自らの虚妄性に気付かさてもいく、そんな双方の「はたらき」が、ろうそく一本の灯火に込められている。

したがって、以上のことからも、ローソクを口で吹き消す行いは、世の習わしとして、お誕生日ケーキだけにしておきましょう。