「成長」と「老い」

乳幼児を預かる園では、その日の園児一人一人の様子を連絡帳に記載しているそうですが、それを記載するためなかなか職員が休憩時間をとれないということを聞いたりします。私が園長を務めている園では、職員が記載するタイプの連絡帳は用いていません。そのため午後1時から3時までの間、交代で1時間ずつ休憩をとっています。では、園では連絡帳は用いていないのかというと、保護者が子どものことについて連絡したいことがあるときのための連絡帳はあります。職員は、連絡帳を読むと、閲覧したことがわかるように押印し、何か質問等が書かれている場合は口頭で応えるようにしています。なぜなら、保護者による送迎が原則なので、直接口頭で応えることができるからです。また、口頭の方が伝えられる情報量も記述するより多いうえに、双方向でやりとりできるからです。そのため、連絡帳に返事等を書かないことへの不満は見られません。

その一方、職員は毎日その日の保育内容・反省等を所定の書式に記録し、それを週末に電子メールで私に送ります。そして、それを私が校正した上で、園のホームページにアップロードしています。年齢別に0歳児から5歳児まで6クラスあるのですが、それに加えて栄養士の先生も給食についての情報を送ってくれます。その文字数を合計すると、毎週16,000字~20,000字近くになります。原稿用紙は400字ですから、毎週40枚から50枚近くの保育内容を校正・掲載していることになります。

一般に、どこの園でも保育者は保育計画を立案し、実施した内容や反省を「保育日誌」等に記載しているのですが、それを目にするのは主幹(主任)や園長くらいで、それ以外の人が目にすることはほとんどないようです。毎日保護者と連絡帳をやりとりしている園では、保育内容を知ることができルかもしれませんが、それでも断片的なことに過ぎないのではないかと思われます。そういう意味では、連絡帳よりも保育内容を多く伝えることができているのではないかと考えています。

前置きが長くなりましたが、ここ数年職員の記述している文章の中に、気になる表現があります。それは、普通に考えると「○○することができなかった」と書けばよいところを「「○○することが難しかった」と、「できなかった」で通じる箇所を「難しかった」と書いていることが良くあるのです。5月に本願寺鹿児島別院を会場に鹿児島教区保育連盟が開催した新任職員研修会の事前アンケートの中にも、同じような表現の仕方が見られました。

そこで、もしかすると大学でそのような指導が行われているのではないかと思い、園の経験年数の少ない職員に尋ねたところ、予想通り大学で子どもができなかったときは、「できない」ではなく「難しい」と表現するように指導されましたという答えが返ってきました。

ここで何が問題かというと、子どもが「できない」ことを婉曲表現として「難しい」という言葉を用いているということです。子どもが「できない」のは、発達の途上にあるのですから、むしろ当然なことであって、それが「できる」ようになることを「成長」というのです。「難しい」の反対は「易しい」です。例えば、取り組む問題がその子にとって「難しい」「易しい」ということはあっても、子どもに対しい「難しかった」とするのは、婉曲どころかもっとひどい表現をしているとさえ言えます。なぜなら、「難しい」を辞書で調べると

①理解や習得がしにくい。複雑でわかりにくい。難解である。
②解決するのが困難である。
③実現するのが不可能に近い。
④状況などが込み入っていて、対処するのがやっかいである。
⑤人の扱いがめんどうである。
⑥好みなどがうるさい。
⑦不機嫌である。
⑧不愉快である。うっとうしい。
⑨むさくるしい。きたない。
⑩気味が悪い。

とありますが、「できない」を言い換える意味として該当するのは①②③です。これらのどこが婉曲的意味になるのでしょうか。これでは婉曲どころか、子どもたちを痛罵しているのではないかと訝しく思われます。

なぜこのような間違った指導が行われているのかというと、ビジネスシーンの取引や交渉などの際、本当は「できません」と言いたいのですが、否定的なことを直接的な表現で言わないのが日本社会の通例であることから、②や③の意味で「難しいです」という表現が用いられます。その場合、言われた方は「ほぼ可能性はない」と受け止めます。こういった生活慣習を反映して、保育現場でも子どもができなかったときは、直接的な表現ではなく、婉曲的な表現として「できないではなく、難しいと表現するように」との指導が行われているのではないかと推察されます。

けれども、子どもに対しての「難しい」は決して婉曲表現とはいえません。繰り返すと、子どもは発達途上にあるのですから、むしろいろいろなことができなくて当たり前だからです。歩行にはじまり、食事や排泄、衣服の着脱など、できないことだらけですが、それらが一つ一つできるようになることを成長というのです。したがって、③など「実現するのが不可能に近い」という意味ですから、「できない」ことを「難しい」と置き換えたのでは、婉曲どころから暴言を浴びせているのに等しいとさえいます。

さて、では「成長」はいつから「老い」に変わるのでしょうか。成長が「できなかったことができるようになること」であるとするならば、おそらく「当たり前のようにできていたことができなくなること」を老いというのではないかと思ったりしています。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。