私たちは、正解のない社会を生きている

時々、「自分に予知能力があったらいいのに」と思うことがあります。予知といっても、それほど遠い未来のことではありません。何か選択をしなければならない時、あるいは何か決断を迫られるようなことに直面した時、予めその結果を知ることができればいいなということです。なぜなら、これから自分が選んだり決めたりすることの結果をあらかじめ知ることができていれば、決して「後悔することのない人生を送れる」のではないかと思うからです。

どうして「予知能力があったら…」などと思うのかというと、これまで生きてきた人生を振り返ると、「こうすれば良かった」とか「あんなことしなければ良かった」と悔やんだり、「こう言えば良かった」とか「あんなことを言われなければ良かった」と口惜しく思ったりすることが、それこそ山のようにあったりするからです。もちろん、私たちの人生は何度でも見直すことはできますが、何一つとしてやり直すことはできません。ですから、「ないものねだり」だということは十分に承知しているのですが、それでも時折、「予知能力があったら、どんな人生が展開していたんだろう」と思ったりすることがあります。

予知能力について思ったりするのは、実はそういった個人的なことだけにとらわれているからではありません。振り返ってみると、例えば学校の試験には、入学試験をはじめとして定期テストや実力テストなど、どの試験の設問にもすべて必ず「正解」があり、その答えを導くための定理や公式などがあります。したがって、それらをきちんと記憶し理解していたり、応用したりすることができれば、常に正解にたどり着くことができますし、満点を取ることも可能です。

ところが、私たちの人生におけるさまざまな事柄や問題は、自分ではいつも正しいと思った解決方法を選んで実行しているはずなのに、なぜか得られる結果や評価はその時々で異なったり、人それぞれだったりもします。また、ある場面では正解だったことが、別の場面では不正解だったりすることもあったりします。

つまり、同じような対応の仕方をしていても、うまくいくこともあれば、うまくいかないこともあったりするのです。それは何故かというと、この社会における事柄や問題への対処の仕方や答えは無数にあり、いったい何が正解で何が間違っているのか、それはその時々の状況によってことごとく変わってしまうからです。

このように、私たちの生きる社会はかなり複雑で、時として何が正しくて何が間違っているのか、わからなくなってしまうことが少なからずあります。それは、私たちの世の中には、事実はあっても真実はないからだと言えます。では、事実と真実は、どう違うのでしょうか。実は、辞書を繙くと「事実と真実は嘘や偽りでない本当のことで、同様の意味」だと説明してあります。また「みんなが一致する一つの場合もあり、人それぞれに複数存在する場合もあるが、一般には他者との関係性を前提に、社会で合意して共有していること。あるいは、一致することのできる、より公的で社会性を有する事柄」だとも付言されています。つまり、事実と真実は同じことだと考えられているのです。そして、このことを踏まえて、テレビのドラマなどで何らかの事件が起こった場合、「事件の真実は…」といったセリフがしばしば聞かれますし、「名探偵コナン」の中でも、主人公の決め台詞は「真実は一つ」だったりします。

けれども、私たちの考えている「真実」は、いつの時代にあっても、誰においても常に変わることはないのでしょうか。もし、そうだとすると、個人間、あるいは集団間、さらには国同士で、争いが生じることなどないのではないかと思われます。なぜなら、そこに争いが生じるのは、お互いの信じる真実が違っているからで、個々の信じる真実こそが正しいのだと主張し合うところに対立や争いが生じることになるのです。

そうすると、辞書で説明する場合は、「事実と真実とは、嘘や偽りでない本当のことだと、自分で信じていること」と表現するのが適切かもしれません。そうすると、私たちが口にしている事実や真実の内実は、「自分にとって都合のよいこと」だといえます。しかし、それでは「真実」と言えないのではないでしょうか。

「天寿国曼荼羅」は、聖徳太子が「世間は虚仮なり。唯仏のみ是れ真なり」と言われ、『歎異抄』は、親鸞聖人が「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と語っておられたとことを伝えています。聖徳太子は、「この世にある物事はすべて仮の物であり、仏の教えのみが真実である」と言われ、親鸞聖人は「世間には、うそやいつわりの言葉、中身のない言葉ばかりで、まことの言葉はないが、ただ念仏(南無阿弥陀仏)のみがまこと(真実)の言葉であられる」と語っておられました。

日頃、私たちが生きて行く上で規範とすべき倫理・道徳も、その時代においては正しくても、永遠のものではなく、時代が移り価値観も変わると善悪が逆転することさえあったりします。極端な例ですが、平和な時は人を殺せば刑法によって罰せられますが、戦争になると罪を問われるどころか勲章をもらえたりします。あるいは、江戸時代の武家のように、「お家」が何よりも大事であった時代は、後継ぎを獲得することが一番大切なことでした。なぜなら、後嗣がいなければ「お家断絶」の憂き目にあうからです。したがって、正妻は自身が跡を継ぐ男子を産めないときは、当主に側室を勧めるのが美徳とされていました。また、身分の高い武家では、側室が数人いたりしました。けれども、現代ではこのような価値観は、遠い過去のものとなっています。

また、現代においても、子ども達は幼少年期、保育施設や小学校において「みんなと仲良くしましょうね」と教えられているのに、やがて年齢を重ねていくと、特に受験などの際は「仲良く」ではなく、競争という名の「争い」を強いられます。さらに、社会に出てからも、職場環境によっては出世競争という「争い」を余儀なくされます。

そうすると、私たちの生きるこの社会とは、まさに正解のない、端的には「真実のない社会」だといえます。だからこそ、その胸の奥に、つまずいても転んでも、何度でも立ち上がる勇気を生み出す真実のはたらき、具体的には「南無阿弥陀仏」を心の奥深くに刻み込んで生き抜いていきたいと思うことです。

私たちの人生は、決してやり直すことはできませんが、何度でも見直すことはできるのですから…。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。