仏道は三つの宝を信じることから始まります。
「三つの宝」とは、仏と法と僧を意味します。
この場合、僧とは現実において、今まさに真実の仏法を伝えている人びとのことで、具体的には仏法が生き生きと輝いている仏教教団の伝道僧を指しています。
仏教は釈迦仏によって説かれた、迷える私が迷いを破って悟りに至る教えです。
そこで私が、迷いを転じて仏果に至るためには、何よりもまずその教えを説かれる釈尊を敬い、釈尊に帰依し、どこまでもその教えにしたがって行く心が、私に生じなければなりません。
仏教は釈尊を信じる、それが全てになります。
ところで、釈尊を信じれば、自ら釈尊の説かれた教えを信じることになります。
その教えこそ、私の仏果に至る道を明らかに示しているからです。
釈尊を信じることによって、必然的にその「法」を信じる信が導かれます。
ここで仏教にいろいろな「法」があることに注意したいと思います。
一般的に八万四千の法門といわれているのですが、ではなぜそのようにたくさんの教えがあるのでしょうか。
これは釈尊が一人ひとりのために、その人に適う法を説かれたためだとされます。
対機説法ということで、その人の求めや能力に応じて教えが説かれているのです。
このような説法の在り方は、釈尊の在世の間は何ら問題はありません。
自分に何か疑問が生じた時には、すぐに釈尊に問いかければ良いからです。
ところが釈尊が亡くなられますと、大変なことが起ります。
自分に疑問が生じても、そこには聞くべき釈尊がもういらっしゃらないからです。
そうしますと、今度は遺された多くの法門の中から、自分に適う教えを自らの判断で選ばなくてはならないからです。
けれども、自分が釈尊の教えを全部学んで、その中から自分に最も適する教えを一つ選ぶということはほとんど不可能です。
私たちはそのような能力を持っていないからです。
そこで私達は、この私を導く師に出会うことが求められます。
すでに仏法を信じて、悟りの道である菩薩道を歩んでいる方です。
私達は、その僧侶の人格に触れ、その僧の説法をに耳を傾け、その方と共に具体的に行道に励むことによって、私もまた仏道を歩めるようになるからです。
この場合、もしその僧の教えや人格が自分に合わなければ、それは自分に縁がなかった教えということになります。
ところが、もしその教えが自分の心に強く響、その僧の人格の深さに感銘して、ここに自分の仏道があると信じられれば、その仏教こそ釈尊が自分のために説かれた教えということになります。
このように見ますと、仏教はまず仏を信じることに始まるといわれますが、実際的には、私を導く師を信じることによって、私たちは仏教に導かれていくというべきかもしれません。
いずれにせよ、私たちはこの世で活躍している仏教教団に属し、自分にとっての善知識(教えを説いて、仏道に導く人)となるべき師と出遇うことが必要です。
そこで初めて、僧を信じ、その師が説く法を信じ、その源である仏を信じるという、私の仏道が成り立つことになるのです。