そもそもお釈迦さまの最初の説法は、四諦八正道という教えでした。
四諦とは、四つの真理ということで、まず人生は苦(矛盾・不安)であるという道理です。
その苦の原因を「集」といいます。
「集」とは「無明(ほんとうの明るさがないということで、智慧がないこと)煩悩(身を煩わし心を悩ます)ということで、苦・不安の原因をわが内である無智とまどいにあるというのです。
私たちは、人生の苦・不安に出会った時だけ「なぜ私がこんな目にあうのか」とか、他人よりは少し善人だなどと思って外に向かって腹をたて、そのあげくの果ては愚痴と言い訳に終始しがちな生き方に陥りがちです。
愚痴と言い訳だけに終始する人生は、まるで暗い闇の中を手さぐりで生きるに等しい在り方だといえます。
けれども、私たちの人生を闇に葬り去るようなことがあってはなりません。
不安と絶望の中で終わる人生ほど空しいものはないからです。
たとえその事実は変わらなくても、絶望するのではなく超克(超え克服)するのです。
「人生は乗り超える道」と発見していくのが仏教だといえます。
道とは、自らの責任において歩むものです。
逃げたり、思い通りにいかなくなったときに時代や社会のせいにせずに、しっかりとこれを見つめ引き受けていく勇気を持つことが大切です。
自分にとって不都合なことを責任転嫁していく在り方を愚痴といい、引き受けていく勇気を智慧といいます。
私たちは、仏さまの大いなる智慧(光明)と深い慈悲(寿命)に遇うことによって、闇を光へと転じ変え成さしめられる道を歩いて行くことが出来ます。
人は、ただ自分の思いや計算だけで生きようとすると、やがて必ず行き詰まりと挫折に終わることになるのです。
それこそが人生の闇です。
実はその闇に苦しみ悩んでいるものを本当に心配して、何とか苦・不安の原因を自らの内に見る目を与えて、目覚めさせ、ひるがえし、目覚めのいのちとさせねばおかないというはたらきを本願力(他力)といいます。
いちはやく、その仏さまの心、仏さまの願いに頷いて、光の中をかけがえのないいのちと人生を尽くさせていただくところに拓けゆく道、空しく終わることのない生き方があるのです。
このように人生の老・病・死のすべてをそのまま正しく見きわめて、絶望ではなく光のはたらき、すべてを包みきってくださる仏さまの大いなる智慧と深い慈悲に目覚めて生きるところに、末通ったいのちとかけがえのない人生の大道があることを味わいながら生きたいものです。