「かけがえのない私のいのちと人生を正しく見よ(正見)」というのが仏さまの教えです。
仏教でいう「正しく」というのは科学的に正しいとか、法律的に正しいとか、道徳・倫理的に正しいということではありません。
「正見」とは「邪見」に対する言葉です。
邪見というのは、自己中心、自分の思いや計算、都合をものさしに見て、考えることです。
端的には、極めて自己中心的で欲望のままに生きようとする在り方のことです。
したがってその反対の「正見」とは、自分の思いや都合、言い換えると本能・欲望・我執中心の生き方ではなく、それらを超えた「無我」といわれる、欲望・煩悩を超えた本当の無心の心でものを見、考えることです。
仏教では、このような視点からいのちと人生を正しく見よといいます。
ところで、仏教では「一切皆苦〜世の中はみな苦である」といわれます。
けれども、よく考えてみますと、確かに人生には苦しいことや悲しいこともありますが、その一方では嬉しいことや楽しいこともあります。
果たして、お釈迦さまは苦しみのみの一生を終えられたのでしょうか。
実は仏教で「苦」というのは単に「楽」の反対、つまり楽しいことはひとつもないという、楽に対する苦という次元の言葉ではないのです。
『仏教語大辞典』には「思い通りならないこと、心身を悩まされて不安定に状態」と説明してあります。
つまり、仏教でいう「苦」とは欲望通り、自分の思い、計算通りにはならないということです。
人生においての思い通りにならないこと、その代表的なことが老いと病と死であると仏教では教えているのです。
老いとはどういう意味で苦であるかといえば、人は誰でもいつまでも若くありたいという願いを持っています。
けれども、その願いの通りにはならなくて、人はやがて必ず老いを迎えます。
同じように、人はいつまでも健康でありたいのですが、全く反対の病気が予期しない形で心身共に蝕んでいきます。
そして誰もがいつまでも生きていたいと思うのですが、例外なく死が訪れます。
これらは、人間の思い、願い、欲望と相いれない私の身の事実です。
私たちは、いつまでも若く健康で生きていたと願うのですが、やがて老い病に蝕まれ死んでいきます。
このように願いと反する矛盾を抱えながら生きているが故に、この事実に悩み不安を覚えるのです。
一般に、人はこの苦がもたらす不安とその結果に惑わされてしまいがちですが、それは苦・不安の原因を自らの内、すなわち無明・無智・煩悩ということをしっかり見つめることから逃げているからに他なりません。
けれども、苦・不安の原因を外にのみ求めていたのでは、いつまでたっても苦・不安からの解放、解脱はありえないというのが仏教の説く大切な点です。