仏教講座9月(後期)

 仏教では天国は迷いだと教えます。

「天国」とは、楽しみのみで苦の原因になるものが全く存在しない。

これ以上ありえない幸福な生が命ある限りつづく、人間にとっての理想の世界です。

 ではそのような生活がなぜ、仏教では迷いになるのでしょうか。

それは天の世界もまた無常の理の中にあるからで、天人にも寿命があるのです。

ただし老・病・死は苦の原因になります。

ことに死は朽ち果てますので汚れになります。

そこで天人はこれらを目にすることはありせん。

だから天の生活では、天人はただ欲望を満たし、若さと健康に恵まれて、楽しみのみを満喫をしていればよいのです。

 ところがある瞬間、天人に寿命の終わりがやってきます。

その天人の死骸は、絶対に他の天人の目に触れられることはありませんから、天の掟として臨終を迎えた天人はただ一人、自然に誰もいない死の場に追いやられます。

 そうすると、若く美しく輝いていた姿が、たちまち悪臭を放ち醜く潰れ、老いと病がその天人を襲います。

この一瞬、臨終を迎えた天人は、幸福の絶頂から不幸のどん底に落とされ、喜びと楽しみに満たされていた心が、悲しみと苦しみの極みに転じます。

 こうして天人は天から追放されることになるのですが、この時に味わう天人の苦痛は、地獄の苦痛よりもひどいとされます。

この苦を持つが故に、天国は迷いなのです。

 ここで私たちの現実の生活に目を向けてみたいと思います。

私たちは、天国のような生活にあこがれて、そこでそのような生活に近付くように努力しています。

しかもそれが徐々に実現されようとしています。

科学時代の私たちの生活をこのように捉えることが出来るのではないでしょうか。

とすれば、臨終もまた、天人の姿に近付いていることになります。

実際、現代人の最大の悲劇は臨終にあると、よくいわれますが、それはまさにその人が天人の臨終と重なっているからです。

 過去のどの時代よりも、文明社会では自分の欲望を満たすことができる生活をしています。

 今を快適に、明るく楽しく生きているのですが、それだけに、老いと病と死を見つめる心が少なくなっています。

なぜならそれは、自分の思いのままにならないからです。

いかに科学の粋を集め、どのように努力しても、私達は願わないのに病み、望まないのに老い、そしてその向こうに死があります。

それは明るさに対して、暗闇になります。

そこで現代人の特徴は、表面的には常に明るい生活を築くように努力しながら、その裏面では極めて暗い心を宿しているといえるように思われます。

 誰でも人生は思い通りに生きることはできません。

これは誰もが知っている真理です。

 けれども、これも例外なしに、人は誰もが「自分だけは、欲しいものを手にしたい。

幸福で楽しい人生を送りたい」と願っています。

けれども、まさにその願いが自らの心を暗くしているのだとすれば、やはりそれを破る教えに私たちは耳を傾けることが大切なのではないでしょうか。