ある時、お釈迦さま若かった頃を振り返り、なぜ自分は王子の身分を捨てて出家し、道を求めたのかを次のように語られました。自分は青年期を、とても快適にこれほどの幸福はないと思われるほど楽しくすばらしい日々を過ごしていた。
私の家は裕福で、欲しいものはすべて手に入れることが出来たし、若さと健康に恵まれて、青春を謳歌していた。
ところが時として、嫌だなと思う心が生じる。
それは老いた人に出会った時である。
なぜだろうか。
自分は今、青春を謳歌しているが、この若さに絶対来てはならないもの、それは老いである。
だが老いを除いて自分の人生はあるであろうか。
たとえ世界中の人が老いないとしても、自分のみは老いるものである。
その自分が老いを嫌悪している。
この自分にふさわしくないといって。
それは矛盾でしかない。
そう思った時、私の若さの誇りは消えてしまった。
同じように、病にかかった人に出会った時、嫌だなと思う。
なぜだろうか。
自分は今、健康に喜びを感じ、健康を楽しみ、健康に誇りを持っている。
この自分にとって、最もふさわしくないものは何か。
それはこの健全な身体に病が忍び込んでくることである。
けれども病むということを除いてこの身は存在しない。
たとえ世界中の誰もが病まないとしても、自分のみは病むものである。
その自分が、病は自分にふさわしくないといって嫌悪している。
この矛盾を見つめた時、自分にとっての健康の誇りは消えてしまった。
そして死者に出会った時も、同じように嫌だなと感じる。
なぜか。
自分は今、人生の幸福の中にいる。
これほどの喜び、これほどの楽しみを味わえないほどの日々を送っている。
この自分にとって、死は最もふさわしくない。
だが誰も死なないとしても、自分こそは死する者である。
その自分が死を嫌悪している。
これはおかしい。
そう思った時、自分の生の誇りは消えてしまった。
この矛盾を解決するために、自分はどうしても道を求めて出家しなければならなかったのである。
さて、この世において、私達は何を願って自分の人生を歩んでいるのでしょうか。
人は例外なく、三つの事を願って生きているのではないでしょうか。
いつまでも若くありたい。
健康でいたい。
そして思う事がすべてかなえられる、幸福で楽しい人生を送りたい。
これが私たちの願いだとしますと、古来、人びとはこのような人生の実現を願い、それをなんとか可能にするために努力を重ねてきたといえるかもしれません。
その努力の陰で、今日の近代化された社会生活では、科学の恩恵に浴して、その願いがかなえられているようにも見えます。現代人の多くは、若さと健康を保ち、快適な生活を送っているからです。
そこでもし、このような幸福の絶頂に浸っている人達に「あなたは宗教を必要としますか」と尋ねたとすると、おそらく「そのようなものは今、必要ではありません」と答えるのではないでしょうか。では、今日の近代化された社会から、老いと病と死は消えたのでしょうか。
決してそうではありません。
(続く)