さて、仏道はこのように、仏と法と僧の三宝を信じることから始まるのですが、ではその信じるということと、仏道とはどのように関係するのでしょうか。
いわゆる信と行の関係がここで問われることになります。
この場合、信と行はまったく同じであって、信じるままが行となり、行じるままが信になるのです。
それは今、僧によって仏の法が説かれます。
その法には、仏果に至る道、行道が示されています。
ここで私はその師の教えを聞き信じることが求められます。
信じなければ私の仏道は成り立たないからです。
では具体的に何を信じるか。
いうまでもなく教えの内容です。
そしてその教えの内容には仏果への道、具体的に進むべき行道が明かされています。
とすれば、教えを信じるということは、その教えのごとく行じる、ということでなければならなくなります。
もし教えのごとく行じなければ、教えを信じたことにはならないからです。
そこで信には二つの特徴があるとされます。
第一は、信じれば信じるほど、仏道が深まり行道が増すという特徴です。
最初、ほんの少し仏法を聞いて、感銘してその教えのごとく実践した。
その時、私の心は今までにない喜びを味わった。
そこでさらにその教えを聞き信じて、教えのごとく行じた。
私の心は、さらに大きな喜びを得た。
そこでますます法を聞き続けることになります。
そうして私の心には、教えに対する理解が深まり、喜びの心も無限に広がってゆきます。
そこに第二の特徴が現れます。
聞法する私自身が、まことにすぐれた心に成るという特徴です。
信の力は、私が仏法を信じ続けることによって、私自身の仏法理解を深めさせ、私をすぐれた仏法者に育てるのです。
だとすると、ここで私が信じることの出来る仏法とは何か、ということが問題になります。
ことに私自身が、日常の迷いの坩堝の中で、生活苦に苛まれている時、この愚悪なる私に信じることの出来る仏法が、ここで求められることになるのです。
このことについて『無量寿経』の結びで、釈尊が弥勒菩薩に次のように語られます。
「阿弥陀仏は一切の衆生に、我が名号を聞いて信じ喜ぶ衆生を必ず我が国土に往生せしめると誓われている。
この法に勝る大きな利益は存在しない。
だから弥勒よ、汝の浄土においても、この名号の法を説き、国土の衆生に名号を聞き信じ喜ばしめよ」
名号を聞くということは、阿弥陀仏の功徳のすべて、寿命が無量であり、光明が無限であるという功徳の一切に、私が包まれるということを意味します。
それは私自身が、無量の命を得、無限に光輝くということです。
この世は無常であり、私の命はいつ臨終を迎えるかわかりません。
しかも人間であるかぎり、常に不慮の不幸を背負っているといわねばなりません。
その私たちが、一日一日を人間として歩み続けねばなりません。
だからこそ、いつこの命が断ち切られたとしても、私自身に無限に輝く命がなければならないのです。
その仏の教えを聞いて信じる喜びが、最も大切になるのです。