仏教で「凡夫」と言い表される私たち普通の人間は、もともと「無明(最も根本的な煩悩。
真実を見失った無知)」という酒に酔っており、欲望に狂わされて、くだらないことに腹を立て、愚かな心で毒のみを好んでいる、といわれます。
ところが、このようなことをいわれてもそのような自覚はありませんので、多くの人はすぐに反発されることと思われます。
そして「何を言っているのか! 私は毎日、一生懸命に善意で仕事に励んでいる。
自分が最も嫌っているのは悪であって、家族のため、社会のため、他人のために尽くすことにこそ喜びを感じている。
まさに日々、善を好んでいる。
悪(毒)のみを好んでいることなどありえない」と反論されるのではないでしょうか。
確かにその通りであって、一般に人間は悪人と善人とを前にすれば、これは例外なく善人の方に好意を抱くものです。
私たちにとって生き甲斐も同じであって、自分の生き方が他人のために役立っているからこそ、その自分の行為が、自分自身の生きる喜びとなっているのです。
ところが現実の生活ではどうでしょうか。
その人のために一心に尽くしたはずの善意が、結果的にその人を傷つけることがあります。
また善意と善意とがぶつかって、争いが起こることも多々あります。
社会に生きる一人ひとりの心を見ますと、誰もが善いことをしようと願っているはずなのに、実際にはその社会には悪が満ち溢れています。
なぜでしょうか。
ここで、無明という酒に酔って欲望に狂わされている自分の姿が浮かびます。
私たちは欲望という毒を持って生きています。
それは常に自分を中心として、自分の欲しいものを自分の中に取り入れようとする毒です。
したがって、他人のために尽くしているはずの善意そのものが、結局は自分にとって都合のよい善をなしているだけに過ぎないということになります。
つまるところ、人は自分にとって都合のよい善しか行いえない。
そうだとすると、善意と善意がぶつかってそこに争いが生じるのは当然のことだといわなくてはなりません。
仏教はその無明に酔っている私たちに、欲望とは何かを教え、その酔いから目覚めさせて、真実の善に生きさせようとします。
そこで、人は仏教が説く真実の善とは何かを学ぶことによって、初めて煩悩に狂わされている自分を知り、なんとかしてその酔いから覚めようと努力するのです。
こうして、自分が今まで好んでいた善は、実は毒であったことを知り、その毒の混じっている善を捨て、これこそが真実の善だと教えられた、その「善」を好むようになるのです。
ところが、その真実の善を知らされることによって、こんどは逆にその善に照らされて、何一つその善を成し得ず、どこまでも「悪のみ」である自分を見ることになります。