また、現代の人々にとっては「信心正因」ということも分かり辛いのです。
信心が正因であるとして、ではその正しい信心は「いつ」私の心に生じるのでしょうか。
この心の自覚は、禅宗の場合であれば比較的容易だといえます。
なぜなら禅の行道では、さとりを開いた者が、まだその心に達していない者の心を導くことによって印可が成り立ちます。
行道の中で、師の僧が弟子に対して「よし」と印可を与えることによって弟子は正しい心を得たことを知り得るのです。
ところが、浄土真宗では、行道において師と弟子の関係は成り立ちません。
お互いが愚かな凡夫だからで、当然のことながら愚かな凡夫に他人の心など分かるはずはあり得ません。
浄土真宗でも「あの人は信心を頂いている」といわれる場合がありますが、私は凡夫ですから、他の人の心を見抜いたりすることなど出来ません。
したがって「あなたはすでに信心を頂いている」といえる人など誰もいないのです。
そうすると、信心を得たかどうかの判断は、自分自身でせざるを得ないことになるのですが、その自分自身こそまさに凡夫そのものでしかないのですから、その判断もまた成立し得ないことになります。
現代の人々にとっては「信心正因」と言われても、その信心を自覚することは非常に難しいことです。
ましてや「称名報恩」と言われても、その前提となる信心正因がわからないのですから、報恩の念仏を称えることはさらに難しいと言わざるを得ません。
このように見ますと、現代社会において近代化された教育によって育てられた私達は、素直に念仏を称えられなくなっている上に、現代教学は信心を中心とすることに偏るあまり教学そのものが念仏の声を消し去る作用をなし、一方伝統教学は教えそのものが観念化されているために人々の心に響かない上に教義の意味が現代の人々の感覚とズレてしまい、結局その教えからもまた念仏の声が出ない状況を作り出しているといえます。
このように、現代の私たちは喜んで自然と念仏を称えるような状況に置かれているとは言い得ません。
それにもかかわらず、私たちにとってなぜいま念仏が必要なのでしょうか。
言い換えると、浄土真宗にとって、なぜ念仏が最も重要なのかを、もう一度根本的に問い直すことが、念仏に生きようとする者に課せられた今日的問題であると言えるように思われます。