「親鸞聖人の往生観」(3)2月(中期)

そこで、私たちの心の仕組みを、そのような点で押さえた上で、自分の中に仏を見るということが、どういうことであるかを考えてみたいと思います。

すでに見たように、私たちの心は事にふれて、寸時の休みもなくころころこと変わります。

ところで、この私の心にもし真実の法が絶え間なくふれ続け、自分の心に映し出されていたとしたらどうでしょうか。

真実の法とは、教えであり言葉だといえます。

私を無限に喜ばせる教えが、常に自分の心に浮かび、その言葉が繰り返し繰り返し、自分の心に語りかけてくれる。

そのような言葉を持っている人は、たえまない喜びの世界に住んでいる、ということになるのではないでしょうか。

浄土真宗では、ご法義に篤い念仏者のことを

「妙好人(みょうこうにん)」

と呼んで讃えていますが、その一人に浅原才一という方がおられます。

この才一さんが次のようなことを述べておられます。

「風邪をひいたら咳が出る。

才一が風邪をひいたら念仏の咳が出る」

これば、自分は教えの風邪をひいたから念仏が限りなく出ると言っておられるのです。

ただし、これは単に念仏を称えているということを言っておられるのではありません。

阿弥陀仏の無限の法に自分は包まれている。

だから、自分の心からは自然と念仏の法が湧き出て来るということを述べておられるのです。

ということは、才一さんの心は常に「念仏せよ、救う」という阿弥陀仏の声が響いているということです。

才一さんは、常に阿弥陀仏の法の中で生かされていたのです。

この才一さんの姿は、現在を生きていると同時に、永遠に教えと共に生きるということだといえます。

才一さんの例から教えられることは、自分の心に常に響いて来る言葉を持つということです。

それは、自分の内に、実体的な仏を求めたり、あるいは自分の外に無限の力を有する仏を求めるということではありません。

常に歓喜の教えにふれているということなのです。

阿弥陀仏の言葉が、いつも聞こえて来るような自分になることだといってよいと思います。

ですから、私たちにとって何よりも大切なことは、確固たる法に出遇うということであり、真実の法を心に持つということです。