ところが、現存する親鸞聖人の著述はすべて、親鸞聖人が信心を獲られた後に書かれたものばかりですが、そのどこを探してみても「後世の祈り」は見られないのです。
親鸞聖人の思想には、そういった後世の幸福に対する祈りや、この世にただよう悪霊へのお祓いといったものは、全く存在していないのです。
不幸の根源ともいうべき、空間と時間を支配する、悪霊・魔力を恐れた痕跡が全く見いだせないのです。
確かに、信心を獲られる前の親鸞聖人は、後世に対して無限の恐怖を抱いておられるのですが、信心を獲られた後は、その恐怖が完全に断ち切られています。
いわば、未来に対する畏れと、空間の悪霊への恐れに、身動きが出来ないほどまでに縛られていた親鸞聖人が、信心を獲られたことによって、その呪縛から完全に解放されているのです。
それは、信心を獲ることによって、仏教が意味する因果の道理がわかったからだといえます。
そうしますと、この「因果の道理」は、科学的に見た原因と結果の法則とは、大きく異なっているといわなくてはなりません。
では、信心を獲ることによって親鸞聖人に何が起こったのでしょうか。
ひとことで言えば「念仏の真実」という因果の道理が、親鸞聖人の全人格的な場で、信心を獲られたその瞬間、明確に信知されたということです。
そうしますと、仏教における因果の道理とは何でしょうか。
それは、凡夫とはただ迷うのみで、その心には一片の真実心も存在せず、一方阿弥陀仏の大悲は、その凡夫を念仏を通してただ一方的に救おうとしておられるということです。
私が南無阿弥陀仏と念仏を称えている、その念仏を称えている姿こそ、この私が既に阿弥陀仏の大悲に摂め取られているのだという真理が、親鸞聖人に明らかになったのです。
それゆえに、時間と空間の呪縛から自由になられたのです。