ここで着目したいのは、浄土真宗の教えに生かされた人として顕彰された
「妙好人(みょうこうにん)」
と呼ばれた人々のことです。
今その人々の臨終に注意してみますと、妙好人の臨終にも、枕元には多くの人たちが集まっています。
ところで、その臨終において、心を乱して歎き悲しんでいるのは、死を迎えようとしている妙好人ではなく、むしろ集まっている周囲の人たちなのです。
その無常を悲しんでいる人たちに、妙好人は静かに語りかけます。
『この世のすべては不条理でしかありません。
なぜなら、悪多く障り多きもののすみかだからです。
常住な幸福に満ちた人生などありえないのです。
だからこそ、私たちには、無常を超えた無限の喜びが、私の心に開かれなくてはなりません。
私は、お念仏によってその心を得たのです。
みなさまも、お念仏の教えに導かれ、無限の喜びに生かされる人生を歩んで下さい。
』
このようなことを語りかけながら、たんたんと臨終を迎えておられます。
妙好人は、私たちと同じ凡夫にほかなりませんが、その凡夫が釈尊や高僧たちと全く同じような臨終を迎えることが出来ているのです。
それはなぜなのでしょうか。
妙好人はすでに一切の呪縛から解放されていたからだといえます。
私たちはいったい根源的に何に呪縛されているのでしょうか。
それは「見えざるものの恐怖」によってです。
そして、その見えざるものとは、時間と空間にほかなりません。
幸福に満たされている、今この私の存在が、いつどこで破綻させられるかわかりません。
未来に流れていく時間の構造を私たちは見ることは出来ませんし、またどこから不幸がやって来るか、その空間を見ることも出来ないのです。
そこで、人はその見えざる力に恐れを抱くのですが、それはまた若き日の親鸞聖人も同様であったと言えます。
親鸞聖人は二十九歳の時、比叡山での仏道に挫折されます。
そこで、山を降りて、法然上人のもとを訪ねられることになるのですが、その理由を親鸞聖人の奥様、恵信尼公が
「後世を祈って」
と語っておられます。
親鸞聖人は比叡山で
「生死出ずべき道(迷いを超える道)」
を求めて、一心に仏道に励まれるのですが、その解決の道が得られず、死後の自分の行く先に無限の不安を募らせておられたのです。