なぜいま念仏か(4)10月(中期)

科学の力によって幸福が得られないのだとしますと、人は科学の力を超えた力を求めざるを得ません。

それは、今まであまり気にもしていなかった、あるいは蔑視さえしていた、人間の力をはるかに超えた能力、いわゆる神とか仏とか呼ばれている霊力に必死にしがみつくことです。

不可思議なる霊力に、一心に祈祷を捧げることによって、再び幸福な人生を取り戻そうとするのです。

ここにそれまでの科学的な生き方から転じた、信仰的な生き方が生まれることになります。

健康に恵まれ順風を受け、理性的判断のもとで人生を歩んでいる時は、まさしく一顧だにしなかった、その宗教的迷信による幸福の求めを、人はいとも簡単に受け入れ、一心に行うことになるのです。

それは、迷信によって呪縛されている姿だといわねばなりません。

このように見ますと、現代人は二種の呪縛によって、我が身が縛られていることになります。

一つは科学の力によって幸福を得ようとする方向であり、他はそれが破れた場合で、信仰の力によって幸福を得ようとする呪縛の姿です。

結局、その幸福の求めは、最終的には両者とも、完全に破れてしまうことになります。

けれども、破れれば破れるほど、人はより一層、そのいずれかによって幸福を得ようとすることになりますから、現代人はその見えない力によって、ますます呪縛されていくことになります。

現代人にとって、最も悲惨な姿は臨終にほかなりません。

楽しみいっぱいの幸福に満ちた人生がある時突然破れ、自分の前に死の影が突如として現れるのです。

そこで、まず科学の力によって、あらゆる手段を講じてその不幸を取り除こうとするのですが、何の効果もありません。

期待に反して、苦しみと衰えが増すばかりです。

そこで今度は神仏の力にしがみついて、その不幸を祓おうとするのですが、これもまた意に反して何の効果もあらわれません。

さらに苦痛に加えて、いい知れぬ不安が募ってきます。

にもかかわらず、この苦悩と恐怖におののく私の心は、その恐れに耐えることが出来ません。

これが、今日の臨終を迎える人の一般的姿だと言えるのではないでしょうか。

そこで、だからこそこの恐れおののく心に、安らぎを与えるために周囲の人々の力が、最近では殊に必要とされるようになったのです。

ここに、今日におけるビハーラやホスピスといった活動が求められ、社会的な重要度が増している理由が窺えます。

けれども、現実的には、多くの人々は迷信的信仰の中で、呪縛を取り除こうとして、より一層その信仰に呪縛されているといえるようです。