ところで、浄土教におけるこの根本問題は、天親菩薩によって既に解決されています。
そして親鸞聖人は、その天親菩薩のみ教えに、まさしくその通りに信順しておられます。
天親菩薩は『浄土論』の冒頭で、釈尊に対して自らの心を
「私は一心に、尽十方無碍光如来に帰命したてまつります」
と表白していらっしゃるのですが、このひと言こそ天親菩薩が自身の求道の究極において獲得された心に他ならないと親鸞聖人は見られたからです。
ではなぜ天親菩薩の中に阿弥陀仏に帰依するという心が成り立ったのでしょうか。
それは、天親菩薩が仏道の中で、真に帰依するものを求められたからだといえます。
私たちの仏道の第一歩は、この私を真実の覚りに導く、仏と法と僧の三つの真実に対する帰依に始まります。
いわゆる三帰依なのですが、仏道における天親菩薩の最大の問題が、天親菩薩自身が
「どのような仏と法と僧に帰依すべきか」
ということであったのです。
自ら真実の心で礼拝し帰命することのできる、その仏とはどのような仏なのか。
真にその仏を讃嘆し、まさにその仏の教えにしたがって、その仏と一体になることの出来る仏とはどのような仏であるか。
そして一切衆生と共に、その仏の浄土に生まれようと願うことのできる仏とは…。
それは完全なる真如そのものだといわなくてはなりませんが、その真如の智慧の相とは、何なのでしょうか。
おそらく、無量と無辺と無碍の光明に輝く仏ということになるのだと思います。
つまり、時間と空間の一切を覆い、その中のどのような障碍をも問題にすることなく、そのすべてに智慧の光を輝かせる。
もしそのような仏に出遇うことが出来れば、そこに自然と真の帰依が生じるはずです。