「親鸞聖人における信の構造」9月(後期)

ところで、相手のために尽くす行為は、果たして本当に相手のためになっているのでしょうか。

相手の心を知り得ない以上、相手のために尽くした行為が、あるいは相手を傷つけていることがあるかもしれないのです。

ところが、一心に善意でなした行為が、実は相手にとって「悪」であったとは、その善意が強ければ強いほどなかなか気づき得ません。

そして相手もまた私に対して、同じような善意がなされていたとすればどうでしょうか。

ここでは、善意と善意がぶつかって、悲しく醜い対立を生むことになるのだと思われます。

最も愛し合っている者が集まっている家庭において、あるいは仲間の中で、このような悲劇が起こるとすれば、利害関係が対立するような場においては、当然、激しい争いが生まれることはいうまでもありません。

この場合、対立するものの互いの主張は、必ず自らの善であって、正義と正義が争い起こして、他を傷つけてしまいます。

一つの社会に起こっている樣々な悪、殺人や盗みや邪淫、このような行為をいかに無くするかが、人間倫理の問題ですが、これらの行為が社会や国家を破滅にまで追いやることはほとんどありません。

これらの悪に対しては、人間の理性は打つ勝つことが出来るからです。

ところが、正義と正義の争においては、いとも簡単に一つの社会が、あるいは国家が破滅に追いやられてしまうのです。

このように、自己を中心としてなされる善は、それほどの恐さを持っています。

善導大師が、自らの姿を

「罪悪生死の凡夫」

といわれたのは、人は日常生活の中で、樣々な倫理的な悪を犯していますが、加えて「善」もまた、自己中心的な他を傷つけるような善しかなしえないと教えておられるのです。

この善導大師の教えを受けて、親鸞聖人は人間の行為の一切を

「雑毒の善・虚仮の行(毒を雑ぜた善・偽りの行)」

と捉えられて、この故に人は仏果に至るような真実清浄の善は何ひとつなしえず、永遠に迷い続けます。

この自分の姿の真実を厳しく見つめよと教えられたのです。