阿弥陀仏の救いを信じるために、善導大師は
「二種の真実を見つめよ」
と教えられました。
一は自分自身の姿であり、他は阿弥陀仏の本願力です。
一については、既に述べました。
では、二の本願力を善導大師はどのように捉えられたのでしょうか。
かの阿弥陀仏の四十八願は、どこまでも深く信ぜよ、衆生を摂取して、疑いなく慮りなく、かの願力に乗じて、定めて往生を得。
この決定している真理を、どこまでも深く信ぜよと述べられるのですが、では阿弥陀仏が衆生をすでに摂取している真理とは何でしょうか。
善導大師は、四十八願の一つ一つの願はすべて
「念仏往生」
を誓っていると見ておられます(「玄義文」)。
したがって、この四十八願とは、第十八願の意であることはいうまでもありません。
そして、その第十八願には
「至心信楽欲生」と「乃至十念」
が誓われています。
これを善導大師はなぜ
「念仏往生」
の本願と見られたのでしょうか。
誓願とは、阿弥陀仏の誓いですから、願心は阿弥陀仏の心だと見なければなりません。
その願心が「至心・信楽・欲生」です。
ではなぜ阿弥陀仏は本願に
「至心信楽欲生」
の三心を成就されたのでしょうか。
迷える衆生を摂取するためには、どうしてもこの三心を必要とされたからです。
衆生の迷いの原因は何でしょうか。
衆生の側に真実を見る目がないということで、何が真であり、何が偽であるかを、迷える衆生は判断することが出来ません。
その不実の衆生を救うためには、その不実の心を真実に転ぜしめるべき真実心が、如来の側で成就されていなければなりません。
阿弥陀仏がまず
「至心」
という真実心を成就されたのはそのためです。
真実心のない衆生は、当然のことながら、仏陀の心、悟りの喜びは知り得ません。
そうだとすれば、悟りの喜びそのものもまた、如来の側で成就されなければなりません。
「信楽」とは、阿弥陀仏の覚りの喜び「歓喜賀慶」の心ですが、この心こそ、衆生を往生せしめる、信心となるべき心なのです。
迷える衆生は、真実を知らず、仏の心を知り得ません。
故に、仏に成ろうとする心は存在しません。
だからこそ、阿弥陀仏は衆生が仏に成りたいと願う心までも成就するのです。
「欲生」とは衆生に対して、浄土への往生を願わしめる弥陀の大悲心であり、
「念仏して救われよ」
と願う招喚の声なのです。