「親鸞聖人の他力思想」4月(中期)

 その時に、初めて真の意味での宗教的な祈りが求められることになります。

ここには現世のご利益の求めはありません。

自分の欲望の全てを擲って、ここで苦しんでいる、このように悩んでいる、このような不安の中にある、この私を救ってほしいという祈りが、究極的なところで生まれてくるのです。

この心を

「宗教的祈り」

ととらえることが出来るように思われます。

 そうしますと、宗教的な祈りの特徴は何かということが問題になります。

宗教的な祈りの特徴は、世俗の幸福の求めの全て、そういうものが全部破れてしまったところに出てくるということです。

それは、自分に残る最後の願いだともいえます。

そこでは、世俗的な欲望は全部捨て去られています。

ですから、残っているのは、苦悩する自分だけということになります。

その苦悩するじぶんの心の全てを、神に向かって

「この私を救ってください」

と祈るのです。

この祈る者に対して、救うほうの神さまとか仏さまは、その苦悩する人の心の一切を見ていることになります。

祈りの側からしますと、このように苦しんでいる心を見て下さい、この私を救って下さいと祈る訳ですから、神とか仏は、その心を知っておられなければ救いは成り立ちません。

そこでは、自分の心が、神・仏の前にさらけ出されていますので、神・仏に対して自分をごまかす必要はなくなります。

ですから、祈りには人間同士に見られるような駆け引きや偽りの汚れた心は存在しないのです。

ただひたすら

「この私を救ってください」

と、一心に祈る、ただひたすら純粋に祈る姿が、ここに見られることになるのです。

そういった意味で、宗教的祈りは、人間の最後に残る、極めて純粋な、最も美しい心であるということができます。

ところが、ここに一つの大きな問題が生じます。

今、科学による世俗的な幸福が破れて、それらの一切を放棄して、一心にただひたすら仏さま・神さまに向かって

「この私を救ってください」

という祈りを捧げている。

これが人間に残る最後の心です。

祈りがあるとかないとか、祈る必要がいるのかないのか、といった問題ではありません。

究極的にどん詰まりになりますと、人間はこのような必死の祈りしかないということです。