「親鸞聖人の他力思想」4月(前期)

 では、科学に破れて宗教に人生の幸福を求めようとするとき、その人が求める宗教とはどのような教えでしょうか。

神さまの力であるとか、超能力であるとか、教祖の力であるとか、信仰の力であるとか、あるいは信者の力であるとか、目に見えない大きな力も含めて、いろいろな力に一生懸命に幸福を求めることになります。

 そうしますと、現在盛んな宗教は、ご利益をもたらす超能力とか、自分の力をはるかに超えた大きな神の力を説く宗教であるように窺えます。

その力にお願いをして、幸福を求めているのです。

一方は、科学の力に、もう一方は幸福をもたらす宗教に救いを求めている訳です。

では、浄土真宗の教えとその信者の人々は、なぜ無気力だといわれるのでしょうか。

端的には

「祈りとかご利益を説かないから元気がないのだ」

ということになるのかもしれません。

 科学に頼ったもののその方向に破れて不幸に陥った者が宗教を求めるのだとしますと、ではどのように宗教に救いを求めることになるのでしょうか。

これはもう一生懸命に祈ることになります。

自分の不幸を除き、何とかして幸福をくださいと祈るのです。

そうしますと、一心に祈るという行為を抜きにして、宗教は存在しなくなります。

 そこで、祈る心というものを問題にしますと、この祈りに二種の心をみることができます。

一つは世俗的な祈り、もう一つは宗教的な祈りです。

世俗的な祈りとは、今いったように、科学によって幸福を得ようとしてその夢に破れた人が、神・仏に祈って、この不幸を何とかしてほしいと願う在り方になります。

したがって、世俗的な祈りによって願われることは、あくまでも世俗の幸福の求めがその中心になります。

 しかし、この幸福には明らかに限界があります。

お釈迦さまが説いておられるように、人間はいかに若さを保つことに努め、健康に注意して幸福な人生を過ごそうとしても、つまるところ、老いて、病んで、死んでしまうからです。

どれほど願っても、老いて、病んで、死んでしまうという無常の理そのものは動きません。

世俗的な幸福の求めは、結局無常の前には破れてしまうのです。

 だとすると、科学的に世俗的な幸福を求めても、つまるところ破れてしまいますし、宗教に世俗的な幸福を求めても、やはり最後には破れてしまうことになります。

どのように神・仏に一生懸命にお願いしても、最終的に死を免れることはできません。

それが私たちの姿だとしますと、究極のところで世俗の幸福は全て破れてしまうことになる訳です。