「親鸞聖人が生きた時代」7月(後期)

これに対して、親鸞聖人が何にもまして関心を向けられたのは

「時」

でした。

そのとき親鸞聖人の脳裏に重々しく意識された

「時」

が末法時であったことは言うまでもありません。

その末法時には、仏教の力のみならず衆生の能力も低下する一方だと説かれています。

このような、かつてない非常の時に際会した自分たち凡夫に最もふさわしい教えとは、いったいどのような教えか…。

親鸞聖人も延暦寺に学んでおられたので、当然のことながら

「法華経」

はご存知でしたし、またそれがすぐれた経典であるのもわきまえておられました。

けれども、それと同時に親鸞聖人から見ると

「法華経」

の教えは、能力の劣る凡夫にとって、いかにも難しすぎるとの感を拭えませんでした。

したがって、それよりもっと易しく、そのうえに確実な救いを期待し得る教えはないものか…、

そんな思念を凝らしていくうちに惹きつけられていったのは、浄土信仰でした。

浄土とは、仏教が地獄の対極に位置付けた理想の仏国土のことであり、浄土に往生すれば、人はみな現世のもろもろの苦悩から解き放たれ、想像の及ぶ限りの福楽を享受することが出来るとされます。

ただし、実は浄土は一つだけではありません。

如来や菩薩はそれぞれ独自の浄土を賦与されており、阿弥陀如来の極楽、弥勒菩薩の兜率天下(とそつてん)、観音菩薩の補陀落山(ふだらくせん)などの浄土が、早い時期から人気がありました。

しかし、末法思想が広まるにつれて、これら各種の浄土に対する信仰は次第に極楽浄土に集中するようになり、平安時代も後期を迎えると、浄土信仰すなわち極楽信仰というほどの高まりを示すことになりました。

では、極楽浄土だけがどうして圧倒的な支持を集めたのかというと、それはこの浄土の教主阿弥陀如来の救いの性格に関わります。

つまり、阿弥陀如来はその本願(仏、菩薩が必ず成し遂げようと自らに課した誓願)の中で、いかなる末世濁世であっても、男女、貴賤を問わず、浄土に生まれたいと願い念仏を称えれば、自ら救いにやって来る(来迎)ということを誓われ、末法下の人々にとってまことに頼もしい存在であったからです。

この阿弥陀如来の本願をいち早く評価し、これこそ末法時に最もふさわしい仏の教えだと位置付け、浄土信仰流行のきっかけを作られたのは、天台宗の学僧恵心僧都(えしんそうず)でした。