「親鸞聖人が生きた時代」7月(中期)

それに対して、日蓮上人が最も重視されたのは正師ではなく経典でした。

日蓮上人が出家された清澄山清澄寺(せいちょうざんきよずみじ)は、宗派の内側からいうと天台宗に属してはいましたが、当時の山内では他宗の真言密教や浄土教の教えも盛んに行われていました。

このような雑信仰的な在り方は、清澄寺の特殊事情ではなく、多くの寺院で一般的に見られた光景でした。

そのため、当初は日蓮上人もそうした傾向に染まり

「阿弥陀仏をたのみ奉り幼少より名号を唱え候し」

と自ら述懐されるように、浄土信仰などにも親しんでおられました。

ところが、そのうちに重大な疑念に突き当り、思い悩まれることになります。

元来、仏といえば釈尊一人であり、そうであるからには仏の教えも一つであるはずだ。

それなのに、国内を見回すと、さまざまな経典を拠りどころにさまざまな宗派が競い立っていて、山内でも天台のほか真言、浄土、禅などが行われている。

どう考えてもこの状態はおかしい。

では、釈尊の説かれた真実無二の経典=正法とはいったい何か。

仏の慈悲の光に浴しがたい末法時の今こそ、釈尊の真意を伝える正法に帰依することが最も肝要な行いではないのか…。

日蓮上人は寝食を忘れるほどに思い煩い、師や兄弟子に向けて、その疑念を繰り返し問い質されました。

しかし、返ってくるのは沈黙や詭弁ばかりで、心は癒されることはなく、独力で解答を見出す他に無いと知った日蓮上人は実に思い切った方法論を自分に課されます。

まず、諸宗に対する一切の偏見を去り、先人の論考にも惑わされることなく、白紙の状態であらゆる経典を読破する。

そのうえで各経典を厳密に比較すれば、釈尊の真意がどの経典に語られているか、おのずと明らかになるはずだ…。

これは、現代の学問の常識から言えばごく当然の原典主義ということになりますが、いざ実行するとなると、日蓮上人の場合はかなりの難事でした。

というのも、仏教の経典の総数は、五千ないし七千余巻といわれるほど膨大だったからです。

しかし、日蓮上人はあえてこの至難極まる方法論を自分に課され、当時の仏教界の最高峰である比叡山延暦寺に遊学されます。

比叡山では、もっぱら延暦寺秘蔵の大蔵経の精読と研究に明け暮れ、その合間には畿内の各地を遊歴し、諸宗の高僧・碩学とも意見を戦わされました。

そして、十数年の苦学の末、自身の正法

「法華経」

と巡り合い、開教の自信を得ることになられたのでした。