では、この摩擦を越えるために、弥陀一仏を信じる念仏者は、世間の慣習とどのようにかかわっていけばよいのでしょうか。
この点が『御消息集』の第四通で次のように示されています。
念仏を信じたる身にて、天地のかみをすてまふさんとおもふこと、ゆめゆめなきことなり、神祇等だにもすてられたまはず、いかにいはんや、よろづの仏菩薩をあだにもまふし、をろかにおもひてまいらせさふらふべしや、よろづの仏ををろそかにまふさば、念仏信ぜず弥陀の御名をとなへぬ身にてこそさふらはんずれ、詮ずるところは、そらごとをまふし、ひがごとをことにふれて、念仏のひとびとにおほせられつけて、念仏をとどめんとするところの領家・地頭・名主の御はからひどものさふらんこと、よくよくやうあるべきことなり。
そのゆへは、釈迦如来のみことには、念仏するひとをそしるものをば名無眼人ととき、名無耳人とおほせをかれたることにさふらふ。
ここでまず親鸞聖人は、念仏をとどめようとしている人々、すなわち領家・名主の
「念仏弾圧」
という行為に対して、それは
「よくよくようあること」
だとして、一応肯定的に受け止めておられることに注意する必要があります。
「ようある」
とは、そうすべき必然的理由があるという意味かと思われます。
それは、なぜでしょうか。
彼ら、すなわち領家・地頭・名主は、真実の仏法に対して、無眼人であり無耳人であるからです。
仏法の真実を見る眼を持っていないし、聞く耳も持っていない。
その彼らが。
今世俗の法によって仏法者を裁き、慣習的に社会の秩序を守ろうと試みている。
いわば、念仏者に対して
「そらごとをもうし、ひがごとをことにふれて」
念仏の教えを弾圧し、社会の秩序を保つべく懸命になっているのです。
「そらごと申す」
とは、念仏の真実に耳を傾けないで、まったく間違った判決を下すことであり、
「僻事をことにふれて」
とは、世間的に見て、念仏者が犯している
「明らかな過ちを、弾圧のためのよい口実」
として、との意に解することができます。
彼らは何も無秩序に弾圧を加えているのではなくて、念仏を停止させるそれなりの理由があったのです。
では、念仏者の
「僻事」
とは何でしょうか。
信仰面でみれば、諸仏・諸菩薩・諸神を疎かにすることであり、倫理面で見れば、世間的秩序を無視して、悪事をはたらくことだといえます。
そこで親鸞聖人は、このような念仏者の行為をまことに厳しく否定されるのです。
まず前者に関しては
「よろずの仏・菩薩をかろしめ」
さらに
「よろずの神祇・冥道を侮り捨てる」
ことは、決してあってはならないことだとされます。
言うまでもなく、諸仏・諸菩薩とは念仏者を導いて下さる方であり、天地にまします神々もまた、常に念仏者を護っておられるのです。
尊敬こそすれ、絶対にあだ疎かにしてはならないと言われます。