さて、親鸞聖人にみるこのような信心と念仏の構造を念頭において、これら三つの引文の念仏思想を窺ってみましょう。
(一)の
(一)弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽へむかへんとちかはせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候なり。
は、『末燈鈔』第十二通の文です。
このお手紙は
「念仏往生と信じる人は、辺地に往生する」
という主張をめぐっての、弟子たちの論争に対しての、親鸞聖人の回答です。
親鸞聖人はここで、弟子たちの論争そのものを、まず厳しく否定されます。
両者共
「念仏往生」
の義をまったく誤って理解していたからです。
浄土教一般では
「念仏往生」
といえば、一心に念仏を称えて、往生を願うという意味になります。
したがって
「念仏往生と信じる」
ということは、普通は一生懸命念仏を称えていれば、往生できるのだと信じることですから、称名が往因行となり、自力の称名と見られなくはありません。
自力の称名は言うまでもなく、辺地にしか往生しません。
そこで弟子の何人かは
「念仏往生と信じる人は辺地に往生する」
と主張したのだと思われます。
ところが、他の弟子から見ると、その主張は
「称名」
の否定になりかねません。
では、この論難のどこに根本的な誤りがあるのでしょうか。
実はその誤りを見いだすことが出来なかったので、このような手紙を親鸞聖人に送ったのだと思われます。
そこで、親鸞聖人は浄土真宗の
「念仏往生」
の真実義をここで説かれたのです。
「弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽へむかへんとちかわせたまひたる」
がその答えです。
この意味は、善導大師の『往生礼讃』の
「弥陀の本弘誓願は」
以下の文によっていることは確かであり、また
「自然法爾」
の文の
「南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんと、はからはせたまひたる」
の意味とも重なっています。
親鸞聖人にとっての念仏往生とは、まさに阿弥陀仏の
「ただ念仏せよ、汝を救う」
という本願のはからいにほかなりません。
だからこそ親鸞聖人は、この本願の勅命を、そのごとく
「ただ信じる」
ことが、念仏者にとっての唯一の往因だと説かれるのです。
そうしますと、この者の仏道は、
「念仏せよ」
という弥陀の勅命をただ信順して念仏するのみとなります。
この故に、念仏往生の本願を
「ふかく信じてとなふるがめでたきこと」
なのです。