6.行と信と証
そこで、次に
「行巻」
から
「信巻」
へということになります。
この
「信巻」
では
「正定聚の機」
が明かされます。
ところで、私たちは最初から信を得ているわけではありません。
本来私たち衆生は迷える者です。
まさに真実の信がないからこそ迷っている訳で、もしこの者にすでに信があればおかしなことになります。
したがって、正定聚の機とは
「信巻」
の結論ということになります。
「信巻」
全体の流れでみれば、
「信巻」
は未だ信を獲ていないものが、どのように阿弥陀仏の法を聞き、最終的にいかにして正定聚の機になるかということが明かされることになります。
いわば
「信巻」
は、未信の衆生における獲信の構造を教えているのです。
これに対して
「行巻」
は、未信者に対して獲信せしめる法とは何かということが説かれています。
未信者が獲信する唯一の道は聞法に尽きるのですが、その聞法の内容、つまりいま私に聞こえてくる法の内実が、
「行巻」
で説かれている事柄なのです。
ですから、
「行巻」
は絶対に
「信巻」
の前に置かれている必要があります。
「行巻」と
「信巻」
は、同一の行信が書かれているのであるから、説く者の気持ちでどちらが先でもよいという考えもあります。
けれども、獲信の構造から窺うと、それは行信の関係についての理解が不足していると言わざるを得ません。
「行巻」の行は、
「信巻」
の信に対して聞かしめる法ですから、
「行巻」は絶対に
「信巻」
よりも先でなければならないのです。
そして
「信巻」の信は、
「行巻」
の行の内容を聞法することになるのです。
さて、ここで行と信と証についての、親鸞聖人の思想の特徴を見ることにしたいと思います。
私たちの人生は、時間的に生から死の方向に流れています。
その時間の流れの中で、まず教えを聞き、次に信じ、それから行じて証果を得る。
これが仏道者の生から死に至る流れです。
この場合、教えとは仏法のことですから仏の側に属します。
それに対して、その教えを聞き、信じ、行じ、証果(悟り)を得るのはいずれも衆生です。
このように、仏教一般では、教えは仏の側にあって、聞いて信じて行じて、証果を得るのは衆生の問題になります。
したがって、信と行と証とはすべて同一人の事柄であって、教えを信じる人と、その教えを行じる人が違えば大変です。
これでは、仏道は成り立ちません。
聞いて信じ、行じて証果を得るのは、すべて同一人の中で起こらなければならないのです。
だからこそ、仏道には時間の流れが必要なのであって、この場合、行から証に至るには、無限に長い時間と厳しい修行が求められます。
そのため仏教では、証果に得るのは至難なことであり、当然のことながら行は必ず難行でなければならないのです。
ところで、このような仏道は、親鸞聖人においては
「化身土巻」
の問題になっています。
それは、阿弥陀仏の教えを聞いて行じて証果を得るという仏道なのですが、末法時代の凡夫には、このような仏道は成立しないというのが親鸞聖人の思想の特色です。
このことは、比叡山での親鸞聖人の修行の結果に基づくものなのですが、山での行に一心に励まれたものの、親鸞聖人には証果が得られなかったのです。
これが聖人の比叡山での最大の悩みになるのですが、この苦悩のどん底において親鸞聖人はやがて法然聖人に出遇われます。
ここで、法然聖人と親鸞聖人との出会いの場を考えてみたいと思います。
親鸞聖人は、法然聖人のもとで獲信しておられます。
親鸞聖人には、法然聖人と出遇われる以前に、比叡山での厳しい行道があったのですが、その行道で獲信されたのではなく、むしろ比叡山での行道は親鸞聖人を破綻の方向に導いたのです。
比叡山での行道の一切が破れ、深淵なる絶望に陥られた時、親鸞聖人は法然聖人と出遇われることになります。