5.「行巻」の流れ
ここで、しばらく
「行巻」
の流れを見てみます。
「行巻」
の冒頭は、
「出体釈」
と呼ばれている部分で、親鸞聖人の言葉から始まります。
そして次に大経引文があり
「称名破満釈」
に続きます。
ここで釈尊の説法が結ばれる訳で、称名は南無阿弥陀仏のはたらきですから、必ず一切の無明の破られることが明かされます。
そしてこれから後に、七高僧(龍樹・天親・曇鸞・道綽・善導・源信・源空)の言葉が引用されるのです。
ところで、この七高僧の引用文で、親鸞聖人は何を問題にしておられるのでしょうか。
一般的に仏道で行と言えば、仏になるために行ずべき行法が説かれるはずです。
ところが、龍樹引文を見ますと、この引文には龍樹菩薩自身、どのように行をはげみ、信を得たかということについては一言も書かれていません。
それは、天親引文でも同じなのです。
七祖引文では、七祖がいかに行に励み信を得たかということについては、一言も説かれていないのです。
私たちが、常識的な立場から
「行巻」
の行というものを考えますと、どうしても私が仏になるための
「行」
ととらえてしまうのではないでしょうか。
どのように一心にその行を行ずべきかと、まず考えてしまいます。
ところが
「教行信証」の
「行巻」
では、そのような行については一言も説かれていないのです。
では、どのような行が説かれているのでしょうか。
龍樹引文では、一切の諸仏が阿弥陀仏の本願を讃嘆していることが示されます。
なぜ諸仏は阿弥陀仏を讃嘆するのでしょうか。
それは、阿弥陀仏の本願が最高だからです。
そこで、龍樹菩薩もまたその釈尊の教えを承けて、阿弥陀仏の本願を讃嘆されるのです。
天親引文も同じです。
天親菩薩は、龍樹菩薩の教えを承けて阿弥陀仏の本願を観察されるのですが、その本願こそが一切の衆生を救うのだと讃えておられます。
このように見ますと、龍樹菩薩も天親菩薩も、いかに行じて信を得、浄土に生まれたかという行を
「行巻」
で述べておられるのではなく、すでに信を得ておられる龍樹菩薩と天親菩薩が、未信の衆生に本願の素晴らしさを説いておられることになります。
このことは曇鸞引文も同じです。
天親菩薩の教えを承けられて、天親菩薩によって明らかにされた阿弥陀仏の教えを、今度は凡夫の立場からよろこび説いておられるのです。
したがって、
「行巻」
の行は、未信の衆生がいかに念仏して信を得るかを問題にしているのではないのだと言えます。
「行巻」
では、未信のものの修すべき行については、一言も書かれてはいません。
諸仏と既に獲信した念仏者の、未信の衆生に対する名号の讃嘆が明かされているばかりです。
それは、名号の伝達を意味します。
七高僧は、いずれも釈尊が説かれた阿弥陀仏の法に信順しておられます。
その阿弥陀仏の法は、釈尊の心を通して、初めて私たち人間界に出現しました。
そして、釈尊から龍樹菩薩へ、龍樹菩薩から天親菩薩へ、天親菩薩から曇鸞大師へと、名号の真実が誤りなく親鸞聖人に伝わっていったということを
「行巻」
は示しているのです。
そうしますと、
「行巻」
の行は、諸仏とすでに信を獲た人が阿弥陀仏を讃嘆するという
「行為」
が説かれていることになります。
そして、その行為を通して、選択本願の行としての名号のはたらきが明かされているのです。
したがって、
「行巻」
の一つの中心は阿弥陀仏の法の伝達にあり、いま一つの中心は、その阿弥陀仏によって選択された名号とは何かを示しているのだといえます。
「行巻」
の標題の註には
「浄土真実の行」
「選択本願の行」
と書かれていますが、
「浄土真実の行」
とは、衆生を往生せしめる名号の説法になり、
「選択本願の行」
とは、説法によって明かされた名号を指しているのだと言えます。
このように見ますと、七祖引文の前半は、名号の讃嘆が中心になり、善導引文でこれが二つに分かれます。
善導大師の引文では、名号とは何かが問われ、その名号についての親鸞聖人の解釈が示されることになるからです。
そして、それに続くご自釈、両重因縁釈から行一念釈、他力釈、一乗海釈で名号の功徳が説かれるのです。
一応
「行巻」
の構造は、このようにとらえることができます。