それに、この「普通」という言葉が落とし穴なんですな。
辞書で引いてみると「あまねく通じる」という意味です。
あまねくというのはすべてにということですよ。
実際すべてに通じているなんてことはありません。
外国に行ったら、髪の毛がちぢれている人間がたくさんいる国がありますよ。
そこではちぢれている方が「普通」やと思いますわ。
わかりますか。
髪の毛のちぢれ具合で人間の価値は上がりもせんし、下がりもせえへんのです。
それを自分自身がはっきりと正しく認識し、堂々と「それがどないしてん」と言えばそれでいいわけですよ。
そう言えないのは少数派やからです。
昔の先生はダメでした。
同和教育、あるいは差別をなくそうという人権運動がなかったから、そういう視点を教えてもらってなかったんです。
だから「かわいそうに、この子の髪の毛がちぢれているから悪口言われるんや。
こら、そんなこと言うたらあかん。
かわいそうやろ」と言います。
これは余計悪いですね。
「髪の毛がちぢれているから悪口言われる」と言うのは、その原因は髪の毛のちぢれ具合にあると言ってることと同じなんですよ。
違います。
髪の毛がちぢれてるのは、その人の責任でもなんでもないことです。
今の同和教育のええ先生なら、「この子の髪の毛がちぢれてんのは事実やけど、この子の責任とは関係ないやろ。
体質やろ。
君の髪の毛まっすぐやな。
けどそのために何か努力をしたのか。
関係ないやろ。
君は体質でまっすぐやし、この子も体質でちぢれてる。
それだけの話。
人間の髪の毛なんて色も形もバラバラや。
百人おったら百通りやで。
そやのに、それでいいとか悪いとかごちゃごちゃ言うのは不当な分け隔てや。
それを差別や言うて、みんなでなくそうとしてるの。
あんたも差別やめな」と言うてくれますよ。
これなら子どもでもわかります。
そんな体質などで、あなたの値打ちは決まりません。
じゃあ何で決まるのか。
同和教育、部落解放運動は、本質を「人間の値打ちは中身」とたった一言で教えてくれてますよ。
この言葉を知ってる人は多いでしょうけど、本当にそう思ってる人はどれだけいますか。
確かに今の世の中はゆがんでいます。
実際は人間の値打ちは中身だけでは判断されません。
けれど、どっちが正しいかは明らかですよ。
人権というのは、全ての人間が笑顔で生きていけるようにするために編み出された、ものの考え方やと思います。