======ご講師紹介======
露の新治さん(落語家)
☆ 演題 「笑顔でくらす、願いに生きる」
昭和二十六年大阪市生まれ。昭和五十年、林家染三師に入門、その後、露の五郎門下に移られました。奈良夜間中学校設立運動に関わる中で学ばれた人権感覚を生かして「新ちゃんのお笑い人権高座」を口演、全国の後援会でも新治寄席(独演会)を行われています。今年から奈良少年刑務所の篤志面接員を委嘱され、「私の人権感覚が問われます。私が学ばせていただくつもりです」と意気込みを語っておられます。
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落語家 露の新治 さん
人間の値打ちは中身ですな。
人間をまっすぐに見る眼を養うことが、自分を大事にすることにつながると思います。
年齢、出身地、国籍、皮膚の色、目の色、髪の毛の色、人種、みんなたまたまのことでございます。
それはあなたのことですが、あなたの責任ではないことです。
あなたの責任はあなたの中身であり生き方です。
人に対する態度や言葉づかい、ものの考え方、どんな仕事をするとか、どんな物言いをするとか、そういうことをあなたの責任というんです。
でもそうでないことで人からとやかく言われるいわれは一切ありません。
しかし、かくいう私もそれで人をいじめた経験が多々あります。
小学校の時クラスに髪の毛がちぢれた女の子がおりましてね。
私はその子に「おいちぢれ毛、ちぢれ毛」と言うて泣かしてました。
もちろん先生は怒りましたよ。
「ちぢれ毛言うたらあきません。
立ってなさい。
反省しなさい」と立たされました。
でも私は立たされても反省なんてせず、開き直るだけでございました。
まだ現象を現象としてしか見ていないからです。
そのちぢれた根本に何があるか。
実は何もない、単なる体質なんです。
髪の毛がちぢれたことはその人の責任とは関連がありません。
そこに人権を大事にしよう、同和地区に対する偏見や部落差別をなくそうという同和教育の意味があるんですよ。
私は同和教育の先生に教えてもらいました。
「ちぢれ毛にちぢれ毛って言うて何が悪いんですか」と聞きましたら、「あんたのその言い方が悪い。
まず、そもそもちぢれ毛をほめてないでしょ。
言葉というのは口から発した文字だけではなくて、顔の表情から表れる全体的な表現です。
ちぢれ毛は不細工、欠点だというメッセージをあなたは届けています。
ではちぢれ毛は欠点でしょうか」とその先生は言いました。
もちろん違います。
ちぢれ毛は単なる体質、あるいは身体的特徴です。
それを欠点であるかのようにおとしめたことが不当な分け隔て、すなわち差別なんですよ。
彼女はそれを受け入れる必要はなかった。
すべての差別をはね返すたった一言、「それがどないしてん」と言えばよかったんです。
どうして彼女はその簡単な一言が言えず、泣き寝入りせなあかんかったのでしょうか。
数が少なかったからですよ。
髪の毛がちぢれてるのは、黒で直毛が多い日本人の中では少数派です。
そうすると髪の毛が茶色の人やちぢれている人は、単なる多数少数とは思われへんのですわ。
直毛が普通でちぢれ毛は変というように受けとられてしまうんです。
いわゆる数の力ですな。
世の中というのは数の多い方が幅きかしまんのや。