私たちの住んでいる読谷村(よみたんそん)は、文化村と呼ばれています。
なぜなら、その宣言をした時の村長の言葉に
「基地の中に文化の楔(くさび)を打ち込む」
というのがあり、デモ行進をしたり、シュプレヒコールを挙げたりすることも止めるわけにはいきませんが、文化をもって基地に立ち向かおうとしているからです。
基地というのは戦争につながっているものです。
いくらきれいごとを言っても、基地というのは戦争のための準備の場所です。
兵隊さんたちの訓練というのは、極端に言えば人殺しの練習をしている訳です。
しかも基地は戦争につながったり、人を殺すだけでなく、目に見えるもの・見えないもの全てを破壊する。
その破壊の構造に対して、文化というのは人々の諸活動が花開き、無から有を創り出す創造の構造ということで、読谷村は三、四十年前から文化村作りというのを徹底してやってきました。
文化というのは、目に見えないものです。
ですから、数字として見るだけでも、読谷村では焼き物の窯元が四十七あります。
他にも織物、染め物、ガラス工芸などがありますし、またこの間まで読谷村には人間国宝が三人もいたのです。
焼き物の金城次郎さん、紅型染の玉那波有公さん、そしてもう亡くなられましたが読谷花織の与那嶺貞さん、この三人がおられました。
それから琉球舞踊の道場が人口三万から四万の村内に十件ほどあります。
また、三味線の教室やお琴の教室などもそこら中にあります。
そういう村にひかれて最近住み着く人が多いのです。
それが何よりも強みになって、読谷の歌や踊りや文化をいっぺんにまとめ上げた読谷祭りというのを三十年余り前に創り上げました。
そしてこれを基地の中でやったんです。
また読谷村の新しい村役場も基地の中に作ったんです。
これがただ基地を返せと、いわば力づくで言うことも大切なことですが、それだけでなく文化という力はやはり強いんですね。
これを読谷村が証明しております。
まだそのお祭りの会場や役場のある所は軍用地なんですが、結局そういうふうに使っているものだから、アメリカ軍の方も返さなくてはならなくなって、遂に返ってくることになりました。
文化の力で基地を返還させた、そんな活動を読谷村はしています。
こういう言葉があります。
「私たちは一日、ひとつの言葉もしゃべっていなくても、実は言葉をしゃべっているのです。
自分自身と話をしています。眠っていても夢を見ていても、言葉を話しているのです。
目が覚めたら語るというのではなくて、寝ても覚めても、たとえ発言しなくても言葉を語っています。
人間というのは、言葉を語るという行為を離れてはありえません」。
これは言葉を離れた人間存在はないということです。
言葉が全てなんです。
今その言葉が非常に軽々しくなってきています。
昔の日本は「言霊(ことだま)」といって、言葉には魂があるとさえ考えていました。
そのように言葉を大事にしてきたんですが、それがなくなってきている時代です。
これは非常に私たちの宗教にとって困るんです。
言葉が人間存在の全てということは、人間が救われるのも言葉によってだからです。
私たちの教えも南無阿弥陀仏という言葉によって救われるのであって、行動によってではありません。
それが浄土真宗の教えです。キリスト教もそうです。
ヨハネによる福音書の最初に出てきますが「はじめに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神なりき」というのが聖書の最初の言葉です。
つまり言葉が全てだということです。
その言葉が今は機械的になり、軽々しくなってくるということは、人間の救いが出来なくなるということです。