現代の宗教事情に、もう一つの影響を与えているのはお金です。
お金になることがいいことで、お金にならないことはつまらないこととしてはいないでしょうか。
つまり、経済的価値観がものごとの判断の中心に据えられてはいないかということです。
確かに、誰しも損をしたくはありませんし、経済的な価値観は非常に重要なものの一つではあります。
けれども、私たちが生きて行く上で、
「一番大事なもの」
ではないはずです。
しかし、もし
「お金が何より大切なんです」
ということになれば、これは
「経済教」
です。
この場合も、仏壇もお社も必要ありませんし、お寺も僧侶もいりません。
そしてご本尊は何かと言えば、
「お金さま」
なんです。
例えば、いろんな信仰を持っている方があって、神さまのお社がお祀りしてあるとします。
それに対して私が
「あなたは大変信心深い方なんですね」
と尋ね、
「そうなんです。
この神さまを信仰するようになってから、商売がうまくいってお金がよく儲かるんです」
と言ったとします。
この場合、この神さまを信仰したらお金が儲かる訳ですから、お金さまが神さまになっているといえます。
それで神さまはお金さまが来るために祀ってあるのですから、神さまの方が序列的には下になっています。
そして、もしお金が儲からなくなると、この神さまはその途端に捨てられてしまうことになります。
こういう状況が、今の日本を動かしている人々の価値判断の基準になっています。
そして、この基準にしたがって判断を誤り、正しい価値観が覆されていくのです。
昨年の夏から秋にかけて、事故米の問題がありました。
それまで私たちは、事故米というものの存在も、それが食料品以外に使う目的で輸入されていることも知りませんでした。
ところが、それが食料品に混じり、私たちの口に入るような形になっていたのです。
これは、道徳上決してしてはならないことです。
常識的に判断するならば、事故米を偽って他人に食べさせてお金を儲けようとするなど、言語道断です。
私たちは、してはいけないことと知っているからしないんです。
ところが、あの事件を起こした人たちは、人の口に入ってもかまわないと思っていたんです。
百円のものを売って十円儲けるより、三十円儲ける方がいいと思ったからです。
そうすると、してはいけないことが儲けるためならばしてもいいことになり、しなくてはならないことがしてはいけないことになってしまいました。
つまり価値観の中心が逆転して、善悪の価値がひっくり返ってしまったのです。
もちろん人間ですから、してはならないことだと、どこかでは分かってはいるんです。
分かってはいるけれどもしてしまったのは、その人たちにとって金もうけの方が価値が高かったからです。
そういうことに歯止めをかけていくものが、ものの価値を決める際の大切な役割なんです。
そして、それが宗教というものに関わる非常に大事なものだと思うのです。