「僧侶のみる現代宗教の状況」(上旬)自分が神さまであり、自分が仏さまでもある

======ご講師紹介======

天岸 浄圓さん(行信教校講師)

☆演題「僧侶の見る現代宗教の状況」

昭和24年、大阪府生まれ。

龍谷大学仏教学科卒業。

現在は、大阪府東住吉区にある浄土真宗本願寺派西光寺の住職をお務めになられると同時に、行信教校、行信仏教学院のご講師をお務めです。

西本願寺の仏教婦人会総連盟の講師、及び布教使として全国的にご活躍中です。

【行信教校】

大阪府高槻市にある浄土真宗本願寺派の僧侶養成のための専門学校。

真宗学・仏教学などの研鑽を行う専門学校。

3年制で、十分に学びを深めた者に入学が許可されます。

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私たちにとって、宗教というものがどのようなはたらきをするものであるかを考えてみましょう。

まず、宗教のひとつの形に、手を合わせる姿があります。

仏教でも神道でもキリスト教でも、手を合わせて拝みます。

この姿は、相手に対する尊敬の心を形で表したものであり、尊敬すべきものを自分以外に認めるという姿なんです。

仏教で言いますと、仏さまに向かって手を合わせ、頭を下げて仏さまを尊敬しているということになります。

尊敬すべきものを持つということを私なりに言わせていただくと、私自身が心のよりどころを持つということです。

これは

「もたれかかる」

という言葉ではなく、人間が生活を営んで行く上で必要な判断のよりどころを持つということです。

人生を歩み、生活を続けて行く中で、善悪の判断に迷うことはたくさん出てきます。

そのときに、これは本当に正しいことなのか、正しくないことだからやめておくべきなのか、そうした判断のよりどころを持たせてもらうことが、宗教の大切なはたらきなのです。

中には、お仏壇やお社(やしろ)を迎えて、手をパンパンと叩いておけば、それで宗教を持ったという感覚になる方も多いようですが、それは錯覚なんです。

なぜなら、それはよりどころを正しく持っている訳ではないからです。

そして、案外人間は自分以外のものによりどころを求めたがらない生き物です。

多くの方は、自分の積み重ねてきた経験をもとに、これはいい、これは悪いと判断することが多いのではないでしょうか。

経験をもとに判断することが、自分を納得させるのには一番たやすい道だからです。

また、最近よく聞くのが

「私は無宗教です」

という方です。

これは

「私は神さまとか仏さまというものを認めたくはありません」

という意思表示なんです。

この人たちにとっては、自分自身の経験や体験に基づく判断がよりどころとなっていますから、この方たちの信仰の対象は自分自身だと言えます。

これを私は

「自分教」

と呼んでいます。

つまり自分が神さまであったり、自分が仏さまなのであって、自分をよりどころにして生きている訳ですから、ある意味人間的な宗教です。

けれども、宗教は手を合わせて拝んだりする形式や行為だと思っていますから、それを宗教とは認めず

「無宗教」

というようなことを言っているんです。

このような場合、自分の都合が何よりも大事になり、すべての中心に自分を置いていきます。

すると、自分の思いが遂げられなくなったときには、遂げられなくしたものが悪となり、悪いものに対しては憎しみの感情を抱いていきます。

そして、それが行き過ぎると、現代社会で起こっている自己中心的な事件や出来事に発展していくのです。

このような感性、心の持ち方は、厳密には宗教とは言えないかもしれませんが、現在の日本で機能している現代宗教の一つの在り方ではないでしょうか。

神さまや仏さまといった、自分を超えたものに判断のよりどころを持つということは簡単ではありません。

したくてもしてはいけないと言われたときに、ブレーキをかけるということは、極めて難しいことだからです。

でも、そういうものがどこかにありませんと、人間はみな、わがまま気ままに生活を送るようになってしまうのではないでしょうか。

そういう視点で宗教のはたらきをもう一度認識していただきたいと思うのです。