======ご講師紹介======
柳家さん八さん(社団法人落語協会会員)
☆ 演題「師 柳家小さんと信心」
昭和19年、東京都江戸川区に生まれ。
東京大空襲を罹災するも九死に一生を得る。
都立の工業高校機械科を卒業し、印刷会社に勤めるが3年後に退社。
親の反対を押し切り、噺家の道に入る。
昭和41年に5代目柳家小さんに入門し、見習いとして修行を積む。
昭和46年に2代目柳家さん八を名乗り、昭和56年に真打ちに昇進。
古典落語の中でも
「こっけい話」
を主に演じ、都内はもとより、学校寄席・地域寄席で全国を巡回しておられます。
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私の師匠・柳家小さんは人間国宝に認定された落語家ですが、実は昭和11年2月26日、世に言うと2・26事件に、麻布3連隊に配属されたばかりの少年兵として参加していたんです。
クーデターそのものは天皇のお怒りをかって鎮圧されましたが、そのことがあって師匠は他の兵隊と一緒に戦場で死んでこいと言われて、日中戦争の最前線に送られてしまったんです。
それでも2年後、なんとか元気に帰ってこれました。
内地で奥さんと無事を喜びあって、落語家の修行にもどったんですが、その後にまた戦地に送られてしまいます。
今度は当時のフランス領インドシナ、ベトナムです。
そして親友が死んで行く中を生き残って、昭和20年にベトナムで終戦を迎えたそうです。
私も師匠に戦争の話をいろいろ聞きましたが
「日本も戦後60年経って平和ボケでしょうがねえや」
と言う一方で
「何はさておき、戦争ほど惨めで辛いものはない」
「あんな戦争なんて、勝っても負けても二度とするもんじゃねえ。
結局泣くのは女子どもだ」
「男は映画や芝居を見ると、兵隊になるんだなんて勇ましく言うけどよ、あんなのは汚くて臭くて全然かっこいいもんじゃねえんだ」
と言ってましたよ。
戦争が終わって師匠は輸送船で横須賀の港に帰ってきました。
その船の中には、中国の兵隊が警備で同乗していて、ときどき威嚇射撃をしていたんだそうです。
それで炊事当番の日本兵が昼飯の準備をしていたら、どこからか怒声が上がって、中国兵が発砲しました。
その弾が師匠のすぐ隣の当番兵の胸を貫通しちゃったんです。
パッと血が噴き出して、その兵隊さん即死ですって。
そのとき私の師匠は、たまたま所持品を調べていて、お母さんが縫い上げたお題目が書かれたお守りをしまって、ごろっと材木のかげで横になったんです。
ちょどそのときに、威嚇射撃の弾が隣の兵隊に当ったんですって。
もしこのとき横にならなかったら師匠も死んでいた訳ですよ。
師匠は後で
「俺が助かったのはお材木(題目)のおかげだ」
なんて言ってました。
それが落語にもなっています。
それで無事に帰ってきて、奥さんと再会した後、落語協会に復帰して、一生懸命芸道と剣道の修行に励んだおかげで、いろんな賞を受けて、人間国宝として天皇陛下にお目見えすることもできました。
そうして噺家の道を邁進し、87歳の生涯を閉じたという訳です。