「師 柳家小さんと信心」(中旬)ガソリンを撒いた後、焼夷弾、一瞬のうち火の海

昭和18年ごろから、ときどきアメリカの爆撃機が飛んできて爆弾を落とすようになっていましたが、昭和20年3月10日に初めて大規模な空襲が行われました。

だいたい東京の旧市街というと、皆さんが思い浮かべるのは皇居や日本橋、銀座、京橋、築地本願寺のある築地などですが、あの辺はときどき爆弾が落ちたそうです。

一方、私たちの住んでいた所は農村など、郊外と言っていい所でして、私たちは長屋住まいでした。

そんな所を爆撃しても何の意味もありませんでしたから、爆弾もほとんど落ちてきませんでした。

ところが、昭和20年に入ってからの空襲では、アメリカは研究を進めておりまして、東京の下町の密集地は、軍事工場の下請け、軍事産業地帯であるとしました。

だから人間が住んでいても、ただの民家ではなく工場であると見なしたんですね。

そして、爆弾ではなかなか被害が広がらないので、全部を焼き尽くすために焼夷弾というのを開発しました。

アメリカは砂漠でミニチュアの模型まで作って、どうやればいっぺんに焼き尽くせるだろうかということをさんざん演習して、焼夷弾を開発したんです。

それをお腹に抱えたB29がマリアナ群島のアメリカ基地から飛んで来て、日本各地を焼き尽くしていったんです。

アメリカは、この空襲は国際法違反、いわゆる無差別大量殺戮じゃないと言います。

東京の下町は民家ではない。

あれは軍事工場の部品を作っている下請けの工場、つまり軍事工場だから焼き尽くしたんだ。

それを犯罪行為といわれる筋合いはないという理屈です。

さて、その下町に住んでいた私の話になりますが、まず私の親父は身体が小さくて近眼だったものですから、兵隊さんにはなれなかったんですよ。

それで、職工として後方で働いていて、夜には警防団という夜間パトロールをしていました。

大空襲の前日、3月9日の夜12時前、そのときに限ってB29が一機だけ飛んできて、何もせずに帰っていきました。

みんなは空襲警報が鳴って防空壕へ逃げたんですが、何事もなく警報が解除されたので、それぞれ自分の家に戻ったんです。

そうやって枕を下にして眠りについたその時が、なんと明くる日の3月10日、大空襲が始まった

12時7分だったんだそうです。

今度は200機以上のB29の大編隊が飛んできて、超低空でやってきました。

高度が低かったので、日本のレーダーでは補足できなかったんです。

爆撃の前には金属の粉を撒きます。

そうすると、電波が攪乱されてわからなくなるんだそうです。

それと一緒にある液体も撒きます。

後で分かったんですが、それはガソリンだったんです。

当時はそんなことは分かりませんから、夜、表を歩く人たちは雨かと思ったんだそうです。

ガソリンを撒いた上に焼夷弾を落としたから、もう一瞬で火の海ですよ。

私の親父は同僚から言われて家に戻りました。

すると生まれたばかりの赤ちゃんの私とお袋、足の悪いおばあちゃんは家の中に見えません。

よかった、ちゃんと避難してくれたんだなと親父は安心しました。

ところが、押し入れから何かうめき声のような声が聞こえてくるんです。

それで押し入れを開けると、おばあちゃんが位牌を風呂敷に包んで肩から背負い、手を合わせて

「南無大師遍照金剛」

「南無妙法蓮華経」

「南無阿弥陀仏」

「般若波羅蜜多」

と、知っている念仏とか題目とを何でもかんでもとなえていました。

そこで親父がお袋に

「ばあさん、何やってんの、そんな所で。

火がそこまで来てるじゃねえか。

お前もお前だ。

赤ん坊を持ってどうしてそこにいるんだ。」

「何言ってんだいあんた。

おばあちゃんは足が悪いし、私は赤ん坊がいるから二人もおぶれないよ。

それにばあちゃんが、この中は暗いから大丈夫だって言って、さっきからここにこもって、よくわからないお念仏だかお題目だかをやってるんだもの」

「そんなの子どもの鬼ごっこじゃねえんだから。

じゃ俺がお袋をおぶっていくよ」

というやりとりをして、やっと防空壕へ行きました。