私たちは仏法に遇い、本当に人間に生れるってすごかったんだなあ、なんという素晴らしい人間に私は生れさせて頂いたのだ、という喜びに気付かせて頂きました。
私が知っているお子さんが小学校のとき、クラスでいじめにあいました。
そのとき
「お母ちゃん、僕の組の○○ちゃんと○○ちゃん、日曜学校に行かんやったからあんなことするんやねえ。
日曜学校に行ったら、み仏さまがいつでも見てるって教えてもろうとるのにねえ」
と言ったそうですが、すごいですねえ。
このことをお母さんは、うれしそうに話していました。
まさか日曜学校にやったら、何年か後にそんなことを思ってくれるなんて考えなかったでしょうね。
押さない心に見えない何かを育てて下さったこと、何とうれしいことかなあと思うんです。
私が勤務しておりますセンターでは、学校に行けない子どもの体験学習をするんです。
時々新聞社とかテレビ局が
「ぜひ映させてください」
と言って来ます。
「困ります。
私の方では秘密でしておりますから」
と答えますと、
「いや顔は映しませんから」
と言われます。
「じゃあ絶対に誰か分からないように遠くから映してください」
と念を押します。
この体験学習では、いろんなことをしてるんです。
馬に乗ったり、山登りをしたり、キャンプをしたりと。
また、職場の中には遊戯室があり、卓球などいろんなことをします。
それを遠くから後ろ向きに映すんです。
するとあくる日、子どもはブスッとして言いました。
「先生、友達みんなに電話を入れとった。
私が今日のニュースでテレビに出るよって。
それなのに、どうして顔が映らんやったん」
と。
びっくりします。
この子たちは、自分が学校に行けないということで、親もそっと連れてきているのに、テレビに出ることがこんなに立派なことだと思っていたのかと。
そういえば、何か目立つことをしてみたくて、人を殺した人もいました。
見えるものしか格好がよくないんでしょう。
もしかすると、見えるものしか信じられないのてじょうか。
大人もそうです。
見えるもの、手で触れられるものしか確かだと思わないのでしょうか。
「見えない」
と私が思いましたのは、最近大変有名な山口県の金子みすゞさんという童謡詩人の
「星とたんぽぽ」
という詩をよんだときです。
青いお空のそこふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまでしずんでる
昼のお星はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
ちってすがれたたんぽぽの、
かわらのすきに、だアまって、
春のくるのでかくれてる、
つよいその眼はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
仏さまというのは、信ずるもののみにあるのです。
信とは
「まかせよ」
という言葉を信じること。
まかせて生きるもののみに、み仏さまはいらっしゃるのです。
こんなに悲しい、こんなに苦しい、あなたは本当にいらっしゃるのですか、と問いたいほどの時があっても、確かにいらっしゃるのです。
なぜなら、何一つ人のためにできないこの私を、今日もこうして生かして下さっているではありませんか。
「何ができますか」
と言われたら、何もできないのに、ただあなたがそこにいるだけでいいよって…。
優しい人とは、
「憂いのそばに人が立つ」
と書きますが、人が悲しいとき黙ってそばにいてあげる、ただそれだけで良いのではないでしょうか。