ある中学校で性教育を頼まれました。
保護者に性教育をしてくださいというので、テーマを何にしようかなぁと思い、
「ゆれ動く中学生、その心と体」
という演題にしました。
当日は校長先生が私を紹介してくださったのですが、
「ただ今より、『ゆれ動く中年、その心と体』という演題でお話してもらいましょう」
と…。
中学生と中年を間違ったんです。
私は校長先生の気持ちを尊重しまして、最後まで中年で通しました。
ただ、本当なんです。
中年のお父さんやお母さんが揺れますと子どもは絶対揺れます。
どんな事情があっても、子どもが一番大変なときや悩んでいるときには、お父さんとお母さんがしっかりしてもらわないと困ります。
私は、公的な学校に行きますと
「因果」
について話します。
原因なくして結果はないんだと。
『歎異抄』に
「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」
とありますように、縁でありましょう。
「人を殺す経験がしてみたかった」
と言った愛知県豊川の少年も、見知らぬ女性を40カ所以上も刺したという少年も、その押さない日を振り返れば不幸です。
親が離婚して、おばあちゃんを
「お母ちゃん」
と言って育った。
小学校のとき、ある友達から
「君がお母さんと言っている人は、本当はおばあちゃんだろう」
と言われたとき、その少年は
「知ってるよ」
と答えたと言います。
おばあちゃんはおばあちゃんで良かったのに、大人が
「お母さん」
と呼ばせる欺瞞(ぎまん)と言いましょうか、そのことを知りながら言うことのできない家庭環境の中で、勉強の良くできる子にしようとしたおじいちゃんやおばあちゃんの期待に応えようと頑張る。
見えない彼の心の奥では、お母さんに会いたいと思ったかもしれない。
叱られたり、うるさいと言われたときも
「本当の親だったらな」
と思ったかもしれません。
小さなときに本当の温かいスキンシップがないまま思春期を迎えた彼に、暴力を否定する能力がその脳に芽生えていなかったと言えるのではないでしょうか。
また、中学生が友達から5000万円恐喝したという事件がありました。
子ども達が毎日タクシーに乗ってレストランに食事に行く、お酒も飲む、それからパチンコもする。
もう5000万円で好き放題をしました。
あれこそ、どうして周囲の大人は気がつかなかったのだろうと思います。
恐喝した子の親たちも気づくことはなく、タクシーの運転手さんも
「中学生のようだなあ」
と思っていたけれども、別にそのことを学校とか警察に言っておりません。
ところで、主犯の少年のお母さんがこう言ったんです。
「もしできるものなら、もう一度あの子をおなかの中に戻したい」
この言葉だけはほっとしました。
なぜなら、中学で友達にそそのかされてとか、先生から無視されてとか言わずに、私のおなかの中にいたときから、その第一歩から、あの子の育て方を変えなければいけなかったんだなと、私に問題があったのだなと思って下さったからです。
ここをクローズアップしたいですね。
若いお母さん、頑張りましょう。
問題があったとき、誰かが悪いという前に、私はどうだったかなと思えれば、子どもに対する言葉かけも変わりませんか。
「何度言ったらわかるの。
もうあんたなんか産まなければよかった」
なんて、どんなことがあっても、言ってほしくはありません。