そうすると、親鸞聖人は
「行巻」で何を語られ、
「信巻」では何を語っておられるのでしょうか。
その内容を私たちは明確に理解する必要があります。
例えば、ある先学はこの
「行巻」の称名について
「大行というのは自分の念仏ではない。
阿弥陀仏から来るのだから、称えている念仏は自分のものではなく、向こうから来るという意味で“聞き側にまわる念仏”である」
と表現をしておられます。
南無阿弥陀仏、この声は阿弥陀仏の方から来ている。
その阿弥陀仏から来る念仏の心を聞くことが重要だといわれる訳ですが、本来
「聞く」という行為は、信一念(「信巻」)の問題であって、
「行巻」の行の問題ではありません。
「聞く」ということは、親鸞聖人においては
「信巻」の信一念のところで問題になるのです。
では、なぜ信一念の時に
「聞く」ということが成り立つのでしょうか。
ここで『教行信証』の信一念までの思想の流れに注目する必要があります。
親鸞聖人は、
「行巻」でまず
「大行とは何か」ということを説明して、それが七高僧によってどのように伝えられたかという、思想の展開を明らかにされます。
その中で、殊に六字の名号の意義を、さらに一声の称名の無限の功徳などを説かれます。
続いて
「信巻」においては
「至心・信楽・欲生」を本願の心だと見て、その阿弥陀仏の大悲心の内実が、非常に深い理念を通して詳述されます。
その一切を聞くことが
「仏願の生起本末を聞く」ことであり、その聞いた瞬間が信一念になるのです。
そうだとしますと、本願の真実が本当に分かった者が、念仏の真実を聞いたということになります。
したがって
「聞き側にまわる」としても、自分にとって『観無量寿経』が一番正しいと思っている者は、いかにその名号を一心に聞いたとしても、それは『観無量寿経』の教えとしてしか聞こえてはきません。
『阿弥陀経』の教えが一番良いと思っている人にとっては、やはり南無阿弥陀仏は『阿弥陀経』に説かれている念仏としてしか聞こえてこないのです。
このため聖道門の人は、南無阿弥陀仏をこの世における悟りのための道であると聞くことになるのです。
したがって、聞き側にまわるその
「聞」は、その人それぞれの立場でしか聞けないのだとすると、聞き側にまわる人の全てに、第十八願の名号が聞こえてくるとは言えなくなります。
そのため、念仏の真実を
「聞く」ということは、第十八願の名号を聞くことが出来る状態の中でしか聞くことが出来ないということになります。
まさに、心が聞くことの出来る状態になって、初めて聞くことが出来るのだということを、親鸞聖人は
「信巻」信一念釈の中で説かれ、
「信心正因」の義をここで明かされることになるのです。
そうだとすると、この信一念釈までは
「信心正因・称名報恩」ということを語る必要はありません。
獲信のときまでは、南無阿弥陀仏は報恩の念仏ではなく、あくまでも大行の念仏なのであって、その念仏の真実義が明らかにされているのです。
その一つのよい例が
(15)信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし。
行の一念をはなれたる信の一念もなし。
そのゆへは、行と申は本願の名号をひとこゑとなえて、わうじやうすと申ことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。
この御ちかそをききて、うたがふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききてうたがはねば、行をはなれたる信なしとききて候。
又信はなれたる行もなしとおぼしめすべし。
これみなみだの御ちかひと申ことをこころうべし。
行と信とは御ちかひを申なり。(「末燈鈔」)
に見られる、
「信の一念」と
「行の一念」の関係です。
信の一念と行の一念は、二つの事柄を指していますが、
「信をはなれたる行もなし。行の一念をはなれたる信の一念もなし」
ということで、ここではまさに信の一念と行の一念がどのように関わるかということが問題になっています。
そこで、信の一念と行の一念の関係になるのですが、ここではその両者がいかに離れないかということが説明されています。
まず
「そのゆへは」ということで、以下が、行の一念と信の一念とが離れて存在しない理由の説明になります。
そこで、次の言葉の
「行と申すは」に注目すると
「行と申すは」という文は、この行の終わりの
「十念をもせんは行なり」までかかるので、
「行と申すは」から
「行なり」までが行の説明、そしてこの全体が行だということになります。