「諸行は無常である。少しでも油断すると、どんどん変化していく。だからたゆまず努力せよ」
これがお釈迦さまが最後に言い残された言葉だと言われています。
ところで、
「諸行無常」
と聞きますと私たち日本人は、ものの哀れみ、悲しみいうところで捉えられているところがありますが、本来の仏教の
「無常」
とは、盛んなるものが衰え、形あるものが滅ぶことももちろんですが、逆に衰えているものが元気になることも
「無常」
であり、つまりそのような感情的なのもではなく、すべてのものは移り変わっていくという真理を表わすのが
「諸行無常」
ということであります。
世の中のすべてのものは、とどまる事なく移り変わっていきます。
もちろんこの私も例外ではありません。
今、この文章を読んで下さっているあなたも、もう読む前のあなたとは違い、髪の毛も数本抜けているかもしれないですし、細胞レベルにおいては随分入れかわっているそうです。
とにかく、この私は一瞬一瞬のいのちを生きています。
しかもそのいのちは、無数、無量のご縁(おかげさま)によってあり得ており、いろいろなつながりのなかで連帯し合って、共に生きあっているのです。
決して一人では生きてはいけませんし、一人では生きられません。
この私の
「いのち」
は、空間的にも時間的にも思いも及ばない程の多くのものに支えられ、連帯し合って存在しています。
それが
「縁起」
という思想であり、その思想に基づいて明らかになるのが仏教の説く
「諸行無常」
の教えであります。
ところで、普段私たちが何となしに使っている
「ありがたい」とか
「ありがとう」
という言葉の中には、この縁起の思想がわかりやすく表現されていると思います。
「有り難う」
とは読んで字の如く、
「有る事が難しい」
という事であります。
数限りないご縁の中で、その関係性によって、有り得ないことが起こった、有る事が難しいのに起こりえたということへの出会いの喜びが、
「ありがたい」
「ありがとう」
という言葉には含まれているのです。
私たちの存在はすべて縁起であります。
それはいかに拒否しようとも拒否できない事実であります。
その縁起の思想によって私たちの人生を考えていけば、私たちは物事をありのままに知る智慧を身につけることができると教えて下さった方が、今から2,500年ほど前のお釈迦さまであったわけです。
しかし私たちの現実は、縁起なる
「いのち」
であることを忘れ、自分に執着し、あらゆる物事を自分中心にとらえて争いをおこし、欲望・怒り・ねたみに、心と身体を悩ませ苦しみ続けています。
そのような私だからこそ、たゆまず、おこたらず、聴聞につとめはげむべきであるとお釈迦さま最後のお言葉を、共に聞かせていただきたいものです。