真宗講座末法時代の教と行 阿弥陀仏の大行 7月(前期)

 すでに見てきたように、末法の世では衆生から仏へという仏道は断ち切られています。

 つまり

 「証」への行道は既に閉ざされているということです。

 それは往生浄土の道でも同じで、清浄なる心が求められれば、迷える凡愚は一声の念仏も称えることはできません。

 このように

 「教」のみしか残っていないのが末法の世だとすれば、この

 「今」を生きる衆生においては、ただ仏の

 「教」のみを限りなく深く問うことが、そこに残された唯一の仏道となるのではないでしょうか。

 では、仏教は末法の衆生にいったい何を教えようとしているのでしょうか。

 ここで先に示した

 「教」の特性を振り返ると、

 「教」は仏から衆生へというはたらきを持っていたことが思い起こされます。

 「衆生から仏へ」という方向ではなく、

 「仏から衆生へ」という方向で

 「教」は私たちの方にはたらいて来るのです。

 そこで、

 「行」の場ではなく、

 「教」の場でこの仏教の究極を見つめると、何が明らかになるでしょうか。

 阿弥陀仏および釈迦仏は衆生に対し、何を願い、何を教えようとしているのでしょうか。

 また、その教えの中心は何でしょうか。

 仏陀とはいうまでもなく

 「完全なる智慧と慈悲の成就者」です。

 世の中の真実を見る智慧と、迷える一切のものを救済する慈悲、無碍の光明と無量の寿命とが仏の心のすべてです。

 そして、真にこの心を成就した仏こそ、阿弥陀仏−光寿二無量の仏−と呼ばれる仏にほかなりません。

 そうすると、阿弥陀仏の心はただ一つ、迷える一切の衆生を必ず救わずにはおかないという願いのみであり、この救いのはたらきが仏の本願力なのです。

 いうなれば、阿弥陀仏は、一片の清浄心もなく、一善さえなしえない邪悪なる凡愚を救うために、仏の宝蔵を開いて教えの真髄を衆生に与えているのです。

 これは、まさしく阿弥陀仏の教法が動き、衆生を仏果に至らしめるためにはたらいている相、すなわち行業だといえます。

 まさに

 「教」がそのまま

 「行」として躍動しているのです。

 「教」がそのまま

 「行」として動き、十方世界の迷える一切の衆生を救済する。

 ここに阿弥陀仏大悲の相があるが故に、十方世界の諸仏は、それぞれ己が国土の迷妄の衆生のために、阿弥陀仏のこの大悲の真相を説示します。

 ここに、諸仏の大悲のはたらきがあります。

 十方世界の迷える衆生には、直接阿弥陀仏の言葉を理解する能力がありません。

 そのため、衆生は諸仏の大悲によってのみ、阿弥陀仏の教法に出遇うことができるのです。

 これを私たちの娑婆国土に重ねると、この国土の仏である釈迦仏の本質はあくまでも人間であり、身体面では人間としての資質しか持ち合わせていません。

 たとえ、無限の智慧を開いて仏陀になられたのだとしても、その寿命に限りがあるならば、いかに無限の大悲を有しているといっても、その実践には限度があります。

 もしこの釈迦仏に無限の大悲の実践を可能にする道があるとすれば、真実躍動する無限の大悲の法を、この釈迦仏の国土に残すことのみです。

 したがって、阿弥陀仏の大悲の法の真実を説くことこそが、釈迦仏の大悲の真の成就であったということになります。