けれども、同時にこの心は、真宗者のすべて、ひいては末法の世に生きる一切の凡愚に通じることも、動かすことのできない真理だと言えます。
この和讃には
「浄土真宗に帰依していても、自身に真実清浄の心は一かけらも存在しない」
ということが述べておられるのですが、そうすると、その者がどうして清浄なる心で浄土を願い、真実なる心で念仏を行じることが出来るでしょうか。
そのような心では、一声の真実の念仏さえ称えることは不可能です。
ここに衆生の行として、念仏行さえ修することの出来ない末法者の姿があります。
また、次の和讃は、さらに鋭く末法の仏教者の姿を明らかにしておられます。
五濁増のしるしにはこの世の道俗ことごとく
外儀は仏教のすがたにて内心外道を帰敬せり
この世は末法であり、どうしようもなく濁り汚れており、その証拠に今日の仏教者はすべて、僧侶も在家の信者も例外はなく、たとえ外見はまるで仏教に帰依しているかのように見えたとしても、心の内は外道の教え(世俗の欲望)に魅惑されて、既に仏道を離れてしまっていることを指摘されます。
ここで、まず第一に私たちは、末法の仏教者を見るに際して、親鸞聖人は
「道俗ことごとく」
と、一切の例外を認めておられないことに注意する必要があります。
したがって、そこには当然浄土教者の心も含まれていると見なければなりません。
第二は
「外儀は仏教のすがた」
ということが問題になります。
この言葉は、しばしば真宗者が他宗の仏教を批判する時に使われます。
具体的には、仏教寺院でありながら御神籤(おみくじ)を売り、方角を占い、現世の利益を祈祷していることを
「外儀」
と呼んでいます。
けれども、この和讃で批判されているのはそのようなことではありません。
もちろん、親鸞聖人はそのような道俗の在り方も批判されます。
ただし、それは他の和讃においてのことであって、この和讃で問題にしておられるのはそれらのことではありません。
なぜなら、現世利益を説き、良時吉日を選び、卜占祭祀をつとめとすることは、すでに
「外儀(そとのすがた)」
であり仏教ではないからです。
では
「外儀は仏教のすがた」
とはどのようなことなのでしょうか。
それは、自分自身が、まさにこれこそが仏教だと思って、帰依の心を表白している、仏教儀式の一切を指しておられると見ればよいのだと言えます。
同じように、まさにこれこそが仏教だと信じて、心身を集中して厳しく修している行道の一切を、さらには学道の一切を指しておられると見ればよいのではないかと思われます。
例えば、各本山が全山をあげて一心に修している、祖師に対する御遠忌大法要の儀。
これが
「外道に帰依するすがただ」
と、いったい誰が言うでしょうか。
けれども、もしその
「外儀」が、仏の「証果」
に通じるものではなく、ただ自分達の世俗的欲望を満たしているだけに過ぎないとすればどうでしょうか。
欲望を満たすという点では、身命を顧みることなく求められる行道、あるいは学道であっても同じであって、その道の成就は仏の悟り(証)に至るのではなく、ただ世俗的栄誉に埋没するだけだからです。
そして、もしこのような世間の栄誉を得、高位に達した仏教者が、自分こそ仏道を求めているのだと自認したとすれば、これこそ
「内心外道を帰敬」
する姿だといわなければなりません。
まさに末法には、仏の行道を修しうる者は誰一人としていません。
まして証果に至りうる者も誰もいません。
この行も証も存在しない末法の釈尊の仏教において、もし真実の行と証があるとすれば、それはどのような行と証なのでしょうか。
私たち凡愚が、行業を通して証果を獲得することのできる仏道があるとすれば、それはどのような行業なのでしょうか。
ここに親鸞聖人によって顕彰された
「大行」
の義があります。